安倍昭恵講演会 森友学園・塚本幼稚園

 安倍昭恵講演会フルテキスト 日時:2015 年 9 月 5 日 場所:森友学園・塚本幼稚園 第⼀部 ■主⼈もここの教育⽅針は素晴らしいと思っている。『安倍晋三記念⼩学校』の名前は総理を辞 めてからなら OK ご紹介を頂きました、安倍晋三の家内の安倍昭恵でございます。今⽇は、お招きを頂きまし て有難うございました。籠池園⻑、副園⻑の本当に、熱い熱い思いを何度も聞かせて頂いて、 この「瑞穂の国記念⼩学院」に何か私もお役に⽴てればいいなぁと⾔うふうに思っておりまし た。 実は昨⽇、あのぉ主⼈は「ミヤネ屋」という番組と「そこまで⾔って委員会」というのを、 そちらは収録ですけれども、そのために⼤阪に来ておりました。まぁ時間があればですね、ぜ ひこちらにも寄らせて頂きたいというふうに⾔っていたんですけれど、残念ながらトンボ返り ですぐ東京に戻りましたけれども、こちらの教育⽅針が⼤変、主⼈も素晴らしいというふうに 思っていて、先⽣からは『安倍晋三記念⼩学校』に、という名前にしたいというふうに当初は ⾔って頂いていたんですけれども、主⼈が『総理⼤⾂というのは、いつもいつも良いわけでは なくて、時には批判に晒されることもある』と、『その時に、⾃分の学校の名前が「安倍晋三」 という名前が付いていると、もしかすると、⾊んなところからその名前によっていじめにあっ たりすることがあるかもしれないし、⾊んなことで学校側も「なんで今この名前を付けたの か?」というふうに責められるかもしれないので、もしお名前を付けて頂けるのであれば、総 理⼤⾂を辞めてからにして頂きたい』ということで、そして、それをご理解頂いて籠池園⻑が 「瑞穂の国記念⼩学院」という本当に素晴らしいお名前を付けられました。 ■「素読」することで「⾔霊」が⾝体にしみわたる 皆様⽅のお⼦様⽅は、ここの幼稚園に通われているのかもしれませんし、またそうでなくて 新たに「この学校に⼦供を⼊れたい」というふうに思われていらっしゃるのかもしれませんけ れども、今、私は、何度もこの幼稚園に来させて頂いてますけれども、園児たちが「⼤学」を あれだけ暗唱しているというのは、本当にビックリしました。私は、前回主⼈が、総理をやっ ている 2006 年〜2007 年の間も⾊んな福祉施設等を回らせて頂いていたんですけれども、その 中で、福岡県にある知⼼学舎(ちしんがくしゃ)という、不登校であったり、まぁニートであ ったり、社会になかなか適合出来ないような若い⼈たちを受け⼊れて、そこで⽣活をしながら、 また社会に戻して⾏く、学校に戻して⾏くという施設があって、そこに⾏かせて頂いたことが あったんですけれども。 そこで毎⽇取り⼊れていたのが、この「素読(そどく)」だったんですね。で、⼤きな声で、 「⼤学」だけではない、⾊んな論語だったり⾊んなものを読む。で、そのことによって、それまで学校に⾏けなかった⾃信がなかった、仕事も出来なかった若者たちが、どんどんその、⾃ 分の芯というものを確⽴して、そして、また社会に戻って⾏く、学校に⾏けるようになる、仕 事が出来るようになる。私は⼀体、この、素読というのは何なんだろうなぁと、その時思って、 確実にその、意味が分かっていてもいなくても、それを声に出して、姿勢を整えて、⾔葉にす るということがですね、⼈間の細胞のひとつひとつにきっと、何か染み渡っていくんだろうな と。 その、⽇本語は「⾔霊(ことだま)」だというふうに私は思っていて、私が話しは上⼿では ないんですけれども、なるべくこの、ひとつひとつの⾔葉に思いを込めたいというふうに思っ て、いつもお話をさせて頂いているんですけれども。その、⾔霊がですね、本当に、⾝体中に こう、⾏き渡って、そしてその⼀⼈の⼈間を作り上げていくんだろう、それが⾃信になってい くんだろうな、というふうに、その知⼼学舎に⾏った時に思いました。 ■幼稚園で培った「芯」が公⽴学校で揺らぐのは残念。⼩学院で太くしていくことが⼤事 そして、その後、そこの施設をやっていた⽅と⼀緒に、素読の会を初めまして、「すずらん 会」という名前なんですけれど、あちこちで素読を勧めています。しかし、こんなに⼩さな⼦ たちが、あんな暗唱を出来るというのは、私はここに来て初めて⾒ました。いつも、私たちが やっているのは、ちゃんとその、論語の本があって、それを⼤きい声で、まぁ⼤⼈であっても 読むんですね。⼦供たちと⼀緒にやることもありますけど、皆で読むんですけども、こんなふ うに⼦供たちが、それも先程のご説明で、強制されるのではなくて、⾃ら「覚えたい」と思っ て覚える。⼀体、何なんだろうなぁと。やればきっと、どんな⼦供でも出来るんだろう。これ を全国に本当に広めて⾏くと、⽇本⼈としてこう、芯の整った⼦供たちというのが沢⼭育つん じゃないかな、と思いました。 この幼稚園でやっていることが、本当に素晴らしいんですけれども、それが、この幼稚園で 終わってしまう。ここから普通の公⽴の学校に⾏くと、普通の公⽴の学校の教育を受ける。せ っかく、ここで芯が出来たものが、また、その学校に⼊った途端にこう、揺らいでしまうとい うことが先⽣(※籠池⽒の⽅を指し⽰し)は凄く残念がっておられたので、ここで培ったもの を、瑞穂の国記念⼩学院に⼊って、またさらにその芯を、こう、出来たものを太く太くして⾏ くということが、きっと⼤事なんだろうというふうに思います。 ■主⼈も私も、天命・使命をいただいている 私は、今、ここでこうして話させて頂いていますけれども、⾃分⾃⾝はもう本当に⼀⽣懸命 に勉強してきたタイプでもなくてですね、偉そうに教育を語れるとは全く思っていませんが、 まぁたまたまですね、安倍晋三と出会って結婚して、主⼈が⼀度総理をし、そしてまた、⼆度 ⽬も、あり得ないと⾔われていた⼆度⽬の総理⼤⾂もした、ということで主⼈⾃⾝も⼤きな天 命を頂き、そして私もなにか使命を頂いているんだろうなというふうに思っているので、こう して「話をして下さい」と⾔われて頼まれた時にはですね、何かひとつでも⾃分の経験からで も皆様⽅に、お伝えすることが出来ればいいなというふうに思ってお受けしているところです。  ■挨拶、姿勢など学校での躾は⼤事 私はずうっと、幼稚園の時からエスカレーターの学校に⾔っていたんですけれども、割りと 厳しい学校でした。その頃はあまり、そういう躾が厳しかったりすることっていうのは好きで はなかったんですが、「⼈の話をきちんと聴きなさい」「座っている時には動いてはいけない」 「⼿を組む時には左⼿を上にしなさい」など、すごく細かいこと、あとお辞儀の仕⽅でもです ね、もう毎⽇のように「いち・に・さん・し・・・」という、お辞儀の仕⽅を学校の先⽣から 習いましたし、「廊下はおしゃべりをしないで⽚側を歩きなさい」「友達同⼠、列で並んで歩 いてはいけません」とか、まぁ⾊んなことを⾔われました。「お友達にももちろん優しくしな くていけない」。 その頃はですね、なんとなくこう、させられていたという感じがあったんですけれども、で も、今になってみるとですね、そういう⼦供の頃に習っていたことというのは、なんとなく⾝ に付いているのかなぁというふうに思っていて、やはり⼦供の時の教育というのは、もちろん、 親の教育も⼤事ですけれども、学校で習うこと、先⽣から習うこと。その中で躾をされること というのは、⼀⽣残って⾏く、⼤切なことなんだろうなぁというふうに思って、今はその頃嫌 いだった先⽣もいますけれども(笑)、感謝をしているようなところです。 ■「安倍晋三」という⼈間と結婚したことで、素敵な⼈⽣を送らせてもらっている 私は、ちょっと教育(の話)からは外れますけれども、主⼈と結婚したのが今から 28 年前 でした。その頃は、私はお勤めをしてたんですけれども、そこで勤めている会社の上司のよう な⼈と、主⼈の友⼈が、⼆⼈を引き合わせようということで出会いました。まだまだ結婚する 気もなくて、会社でしばらく働いていたいなぁというふうに思っていたので、最初、その、 「お⾒合いしませんか?」と⾔われた時には、お断りをしたんですけれども。 でも、何回か、「すごくいい⼈だから、会うだけ会ってみませんか?」というふうに⾔われ て、そして、主⼈と出会いました。あ、あの、まぁお⾷事をしました。本当にあの、いい⼈だ ったんですね。でも、あの、結婚するつもりはまだまだ全然なかったので、そのままにしてい たんですが、何回か⾷事に誘ってくれたりするうちに、お付き合いが始まって、そして⼆年半 ぐらい経って結婚しました。 私はまさかその、政治家の妻になるなんて、本当に⼦供の頃、若い頃思ってなかったんです けれども、主⼈はその頃、⽗の秘書をしていたので、いつかは政治家になる⼈なんだろうなぁ というふうに思って、結婚前に「政治家の奥さんって、⼤変なんでしょうねぇ?」と⾔ったら、 (主⼈が)「全然そんなことないよ、誰でも出来るような仕事だから⼤丈夫、そんな仕事もな いし。」というようなことを⾔われて、結婚して、そして 28 年間経ちました。 もし、その時に、普通のサラリーマンであったり、また全然違う学校の先⽣であったり、違 う職業の⼈と結婚していたら、たぶん私の⼀⽣は全く違うものになっていたんだろうな、とい うふうに思いますけれども、たまたま安倍晋三という⼈に出会って結婚したがために、本当に このようなあの、す、素敵なというかですね、⼈⽣を送らせてもらっていて、⼤変なことも沢 ⼭ありますけれども、でも、主⼈と結婚しなければ出会えなかった⼈たちにも沢⼭会えました し、また、出来ないことも沢⼭させてもらって、特別なところにも沢⼭⾏かせてもらって、本 当に今は感謝をしています。なので、まぁその感謝の気持ちを少しでも返せたらいいなぁ、というふうに思って、あちこちに⾏かせて頂いているところです。 ■第⼀次安倍政権。1年で辞めたのは主⼈にとっても私にとっても⼈⽣初の挫折 主⼈は、選挙をですね、もう本当に強い選挙を勝ち抜いて参りまして、⼀度も落選すること なく当選を続けて来ました。⼩泉さんが辞める時にですね、次の総裁選挙に出ようかどうしよ うかと、⼤変悩んでおりましたけれども、でも多くの国⺠の皆様に「ぜひ、なって下さい」と いうふうに⾔われて、そして、総裁選挙に⽴候補して、総理⼤⾂にならせて頂きました。⼀年 間、もう本当にこの国のために⼀⽣懸命、その時は頑張ってたんですけれども、残念ながら、 ⾼校⽣の時から「潰瘍性⼤腸炎」という病気を患っていまして、総理⼤⾂というのは本当に⼤ 変な仕事なのでですね、まぁストレスもあって体調を崩して、最後の最後まで踏ん張ってはい たんですけれども、「これ以上やってはもう迷惑をかける」ということで、辞めることになり ました。 辞める時までの、本当に⼀ヶ⽉ぐらい、もう綱渡り状態で私も⾒ているのも⾟かったので、 辞めると決めた時には妻としては「良かったな」という、⼼がちょっとホッとするような思い もありましたけれども、主⼈⾃⾝はですね、やりたいことを道半ばで⾝体のために辞めなくて はいけない、ということでですね、本当に無念で悔しい思いで、多分⼀杯だったと思います。 そんな中で、「途中で総理⼤⾂を投げ出した、無責任な奴である」と⾔って批判に晒されまし てですね、⼤変、私も悔しい思いもしましたし、⾟い時期を過ごしました。初めて、何か挫折 というものを主⼈⾃⾝も感じたと思いますし、私もその挫折感を味わいました。こんなに⼀年 間、頑張って頑張って仕事をして来たのに、どうして最後にこんなふうに批判をされなきゃい けないんだろうかと、とても悲しい思いになりました。 ■なんで私たちだけがこんな⽬にあわなきゃいけないのかと思った そこで、病院で⼊院している主⼈と、そこで私も病院に泊まっていたんですけれども、主⼈ のところと、すぐに引っ越しをしなくてはいけない公邸とのですね、⾏き来する⾞の中だけが ⼀⼈になれる時間だったんですね。病院に戻ればまだ総理⼤⾂という⽴場だったので、周りに は秘書官も SP も⾊んな⼈達が騒々といて、病院の外にはマスコミが待っていて、誰かが出⼊ りをしないかと狙っている。で、公邸に⾏けば、友⼈達がいてくれて、そこで⽚付けをすると いう。まぁその間の⼀⼈で⾞を運転する中が、その⾃分の、時間だったんですけれども、そこ で笑っている⼈達を⾒るとですね、「なんでこの⼈達はこんなに笑っているんだろうか?どう して私たちだけがこんな⽬にあわなきゃいけないんだろうか?」と思って、いつも涙を流して いました。 しかし、その瞬間は泣くんですけれども、その後また病院に帰れば、ニコニコとして、まぁ ⼀応主⼈の前で⼤丈夫な振りをしていましたけれども、そんな、その時の状況を思い出すとで すね、多分精神的にはかなり、参っていたんだろうなぁというふうに思います。 ■主⼈が⼆回⽬の総理になったのは神様から⼤きな使命をいただいたから でも、⼈間は、私は、無駄な経験はひとつもないんだろうなというふうに思っていて、その 時の経験も今になれば私にとって必要な経験で、そのことがあるからこそ、⼈に優しくなれた りとか、まぁそういう⼈の笑顔を⾒ても、涙が出るような、そういう状況の⼈たちの気持ちが 分かったりとか、なんとなく⾃分の⼈間が少し幅広くなったのかな、というような気はしてい ます。 主⼈⾃⾝もですね、その時の経験があって、悔しい思いがあって、その後、なんとしてもも う⼀度たぶん、総理⼤⾂に戻って⾃分がやりたいと思った憲法改正等々を、もう⼀度⾃らの⼿ でやりたいというふうに思って、努⼒を重ねて来たんだろうな、というふうに思っています。 その 5 年間というのは、主⼈も本当にあの、毎⽇のように⾊々と努⼒をしていました。座禅に ⾏ったりとか、ランニングをしたりとかですね、また、⾊んな⼈に会ったりとか、⾃分だった らどういうことをしたいかとか書き綴っていたりとか。 でも私は、もう今、主⼈が⼆回⽬の総理であるのは、先程も申しましたけれども、まさしく これは「天命」である、というふうに思っています。先程、籠池園⻑とお話をしておりました ら、園⻑もご病気をされて⼊院をされておられたと。ちょっとでも発⾒が遅れたら⼤変なこと になっていたかもしれない中で、私は「⽣かされたんですね。」とお話を申し上げましたけれ ども、まさしく主⼈も病気でありながらも、そうやって⽣かされて来ている、ということは何 か神様から⼤きな使命を頂いて、「これをやりなさい」ということなんだろうなというふうに 思っていますし、私⾃⾝もそのような何かかしらのお役を頂いているんだろうなぁというふう に思っています。 ■安保法案に反対してデモをしても決して平和にならない 今、安保法案等々でですね、本当に⼤変な時を、まぁここを乗り切らなくてはいけないとい う時なんだと思います。私は⾮常に幅広くですね、思想的に⾔えばものすごい右の⼈からもの すごく左の⼈まで、どんな⼈とでもお付き合いをしたいと思っているので、デモに参加をする ようなタイプの⼈たちとも、実は、普通の⽣活の中ではお友達だったりとか、親しくお付き合 いをしたりとかすることもあるんですね。まぁそういうことがまた何か、あの、週刊誌は書き たいとまた思っているみたいなんですけれども。 でも、今の、私の考えは、こう何が平和にならないのか?というと、⾊んなものが対⽴して いってしまうことが問題なんだろう、というふうに思っていて。あの、『戦争反対』というの はみんな反対、だと思うんですけれども、それをデモをして、「ハンタイ!ハンタイ!」って ⾔ったからと⾔って決して平和にはならない、というふうに思っているので、平和にしたいん だったらじゃあ、「どうして、どうやって平和を作っていったら良いのか?」ということをや っぱり、みんなで考えて⾏かなくてはいけないんだろうと思います。 ■安保法案は独⽴した本当の⽇本を取り戻すためのもの。「戦争法案」ではない もちろん、主⼈は戦争をしようと思ってあの法案を通そうと思っているわけでは絶対ないこ とは、もちろん皆さんがよく分かって下さっているんじゃないかなというふうに思っているん ですけれども、まぁマスコミも、今⽇はテレビも⼊っておられますが(笑)、マスコミや⼀部の⽅たちはもう「戦争法案」である、というふうに⾔われて、それを煽り⽴てて⾏くことによ って若いお⺟さん達は、「うちの⼦供を絶対に戦争にやるわけには⾏かないから、この法案を 通してはいけないんだ!」っていうふうに思われます。 その、戦争、本当に戦争法案だったらもちろん反対して頂きたい、というふうに思うんです けれども、これは本当にそんなことではなくて。私はあの、⽇本という国がですね、やはり戦 争に負けて、その後、それまでの⽇本とはやはり精神性が変わって来てしまっているところが あるのではないかというふうに思っていて。本当の独⽴した⽇本を、主⼈は取り戻したい、 「ニッポンを取り戻す」と⾔っているのは、まぁそういうことなんだろうというふうに思いま す。 その中で、いかにこの、独⽴をきちんと、独⽴国家としてきちんとこう、⽴ち位置をこう、 置いていくかという時にですね、やはりあの、順番にあの⾊んな段取りがあるんじゃないかな、 と。私は難しいことはよく分からないので、ですし、私は選ばれた者ではないので、政治をそ んなに語る資格もないと思うんですけれども、主⼈は、選挙で選ばれていて、そして総理に選 ばれていて…。で、国がこういう⽅向に向かって⾏く、べきであるという、そういう強いビジ ョンや信念を持って今政治をしていると思うので、どうか皆様⽅にはご理解を頂きたいと思い ます。 ■世界のどの国に⾏っても「⽇本は素晴らしい」と⾔われる 主⼈と⼀緒に、世界中⾊んな所に私は⾏かせてもらっています。どんな国に⾏ってもですね、 ⽇本語を学び、⽇本の⽂化を学び、本当に⽇本を愛している⼈達が、たっくさん(沢⼭)いま す。⽇本は世界の嫌われ者なのではないかというふうに思っている⽅たちもいるみたいなんで すけど、決してそんなことはなくて、特に途上国の⼈たちはですね、なんとか⽇本みたいにな りたいと、お⼿本にしています。勤勉で、そして本当にあの、美しく、美しい国でありますし、 何もかもこう整っていて、時間は全て正確だし。こんないい国は、治安はいいし、こんないい 国はないと。「え、なんで⽇本はそんなふうに発展出来たんですか?」と。「⽇本のようにな りたい」、「⽇本に学びたい」、私は世界中で多くの⼈達に⾔われました。 で、「⽇本の素晴らしさって何なんだろう?」と、その度に思っていますし、⼀回も⽇本に 来たことがない⽅たちにですね、「本当に⽇本って素晴らしい国なんですね、私も⾏ってみた いです。」と⾔われると、今、ものすごい⼤きな憧れをもってこの⽇本にやってきた⼈たち、 「あ、やっぱり⾃分が思っていたとおり、いい国だった」って、私たちは胸を張って⾔えるん だろうか、ちょっと不安にもなります。堂々とですね、⽇本は、「素晴らしい国なんですよ!」 って、ひとりひとりが⽇本に誇りを持てるような、そんな国づくりをしていかなくてはいけな いんだろうなというふうに思います。 ■⽇本が他国より秀でているのは、お掃除の⼈も勤勉で⼀⽣懸命なところ でも、よその国から⾒るとまだまだ、やはり⽇本は『勤勉な国』。あの、皆さんもご存知か と思いますけれども、新幹線のお掃除が今、すごく海外の⽅からも観光名所になるくらい話題 になっていると。で、本当に僅か数分の間にですね、あのお掃除の⼈達がバァーっと掃いてい アキエリークス presents 7 て、すごい勢いでお掃除をする。あの⼈達のお帽⼦だったりとかには、その、時々の桜の季節 だったら桜がちょっと添えてあったり、クリスマスだったらクリスマスのリースがあったり、 そんなちょっとした配慮もあったり…。そして、ただダラダラっとやるわけではなくて、もの すごくキビキビやって、きちんとみんな整列をして。誰が⾒ているわけでもないかもしれない けど、お辞儀をして、サァ〜っといなくなるという。 で、私がある外国⼈の友⼈と話していた時にですね、「⽇本の素晴らしさの⼀つは何か?」 というのは、彼⼥は、彼⼥⾃⾝は中国⼈で⾮常に⽇本語が上⼿な中国⼈で、だったんですけれ ども、どんな仕事に就いている⼈も⼀⽣懸命やっている。こんな国は他にはない、というふう に⾔われました。 私も、確かにそうやって⾒るとですね、例えば⾊んな国に⾏きます。で、アメリカでもそう ですけれども、ヨーロッパでもその、⼀番トップレベルの⼈たちというのはもしかしたら、⽇ 本のトップレベルの⼈たちよりも⾼いレベルにいるかもしれない。それはちょっと分からない ですけれども、すごい研究をしている⼈たちとか、すごいビジネスをしている⼈たちとかって いうのはものすごいレベルにいるのかもしれない。 でも、そこの⾶⾏場に着いた時、その⾶⾏場でお掃除をしている⼈だったりとか、その荷物 の検査をしている⼈だったりとか、という⼈たちがどんな態度でいるか?結構みんな、ダラ〜 っという感じなのですね。もう「やりたくないよ、こんな仕事。」っていうような⼈たちが沢 ⼭います。 でも、⽇本は決してそうではなくて、⾶⾏機が⾶び⽴って⾏く時に、こう、下で整備の⼈た ちが⼿を振っている。それももう本当にこの、素晴らしい⼿の振り⽅で、私をそれを⾒ている だけでとても感動するんですけれども…。 ■今までの教育はよかったが、最近は⾃分のことばかり考える⼈が増えている その⽇本の今まであった教育というのはですね、確かに素晴らしい物であったし、そういう ところに活かされているんだろうなあというふうに思いますけれども、でも、残念なのはやは り、⾃分のことばっかり考えている⼈がだんだん増えているのかな、という気もします。 ■曽野綾⼦さんとアフリカに⾏ったのがきっかけで、⾃分も何かしたいと思う 私は 2006 年ぐらいからですね、ミャンマーに関わり始めました。関わったキッカケは、曽 野綾⼦先⽣とアフリカの貧困のツアーに⾏ったのがキッカケだったんですけれども、⼦供たち が勉強したくてもなかなか出来ない。 でもその⼦達は、⽬を輝かせて、本当に元気に⾛り回っていました。貧困を⾒に⾏ったんで すけれども、むしろ、何か私はその、貧しい泥んこになっている⼦供たちから勇気や元気をも らったような気がして。でも、勉強したくて出来ない⼦達がこんなに沢⼭いるという現状を、 初めて⽬の当たりにしてですね、何かお⼿伝い出来ないかなぁというふうに思いました。 ■ミャンマーの⼦供を⽀援することにしたのは、親⽇国で、主⼈にすすめられたから で、まぁアフリカは遠いので、ミャンマーにしたんですけれども。なぜミャンマーにしたか というと、まぁ主⼈が、私が「アジアの⼦供たちのために何かやりたいんだけれど」という話 しをしたら、「ミャンマーがいいんじゃないの?」と⾔ったので、どこにミャンマーがあるの か全然わからないままに、ミャンマーにしました。 で、主⼈は初めてミャンマーに⾏ったのが、⽗が外務⼤⾂、安倍晋太郎が外務⼤⾂の時だっ たそうです。1980 年代で、まだまだですね、戦後補償の問題、ずっとその、中曽根総理とアジ アを歴訪している中でですね、⾊々な各国からの要求があったらしいんですけれども。最後の 国のミャンマーは、全くその、⽇本側が出した提案をそのまますんなり受け⼊れて、それ以上 のことは⾔わずに、「もう過去のことは過去のことで、これから⼿を携えてアジアの未来のた め、アジアの平和のために⼀緒に頑張りましょう。」という話しをされて。そして、⽇本の軍 歌を歌ってくれたそうです。 で、すっかり安倍の⽗も主⼈も、ミャンマーファンになりまして。でもその、私がミャンマ ーに学校を作ろうと思った頃は、⽇本とミャンマーの関係は国同⼠としてはですね、あまり良 好なものではなかったので、「ぜひ、⺠間レベルで応援をしてあげて欲しい。」ということで、 ミャンマーに⽀援をすることにしました。 本当に貧しい地域で、寺⼦屋といってあの、ミャンマーは仏教国なので、お坊さんたちが学 校を、⾃分たちが住んでいる所の⼀部を学校にして貧しい⼦供達をそこに集めて勉強を教えて いるんですけれども、そこの学校を建てることにしました。元々お坊さんがやっている学校に、 まぁ、新しい校舎を建ててあげるということにしました。 ■ミャンマーに⾏くたびに、⽇本の⼦供は⼼が豊かなのか、感謝の気持ちがあるのかと思う 何回も⾏っているんですけれども、ミャンマーの⼦たちはですね、さっき、園児達があの、 ⼤きい声で暗唱をしたように、そのお祈り、仏教のお祈りを延々とこう、私たちに聞かせてく れたりとか。また、お給⾷を出してあげるんですけれども、給⾷を⾷べる前にはですね、やは り⻑いお祈りをしてものすごく感謝をして、そして、たっっくさん(沢⼭)⾷べるんですね。 で、普段は給⾷がありません。でも私たちが⾏ったりする時には、あるいは何か記念の⾏事が ある時、「今⽇は結婚記念⽇だから寺⼦屋の⼦供たちに給⾷を出してあげましょう」、みたい な⼈たちが沢⼭近所にいて。そういう何かがあると給⾷が⾷べられる。給⾷といっても⽇本の 給⾷とは違って、ご飯と、スープの中にちょこっとだけ何かお野菜とお⾁がちょっと⼊ってい ればいいかな、ぐらいなものではあるんですけれども、でもそれを、ものすごい美味しそうに、 いっぱい⾷べます。こんなにちっちゃい⼦も、ものすごくいっぱい⾷べて、そしておかわりを するんですね。 で、それを⾒ていると、とっても何となく、私は⼼が暖かくなって…。たまに、あの、⽇本 の⼩学校や中学校でもお給⾷を⼀緒に頂かせていただくことがあるんですけれども、でも⼦供 たちはもう、最初の段階で「あ、これ要らない。」と⾔ってもう(元の場所に)戻してしまっ たり…。 すごく、私たちの時代は、「給⾷は絶対に全部⾷べなきゃいけない」、「残してはいけない」  と⾔われていたので、私なんか⾷べるのが当時遅かったので、もうずっと延々と休みの時間ま で⾷べているような時もあったんですけれども。今の⼦供たちは、まぁアレルギーがあったり とか⾊々な問題もあるんでしょうけれども、給⾷を全部たべなくてはいけない、ということは 全然なくて、まぁ残したり、嫌いなものはその、(元の場所に)戻してしまったりということ を⾒ているとですね、なにかあの、豊かさって⼀体何なんだろうなぁというふうに、ミャンマ ーに⾏く度に思うんですね。 物が、こう、本当に豊かに溢れている。けれども、⼼の豊かさが本当に育っているんだろう か?、感謝の気持ちが本当に育って⼊るんだろうか?というふうに、⽇本の⼦供たちを⾒てい て思うことがあります。ミャンマーのその、貧しい地域には本当に⾷べるものも、⽇々なくて ⼤変な思いをしている貧困家庭が沢⼭あるんですけれども、でも、ちょっとの物をみんなで分 け合ったり、いじめもその学校の中では、私が聞いている限りではないですし、親の虐待とか もない。 まぁ、もちろん、貧困のために⼦供たちが売られるというような、⽇本にはないようなそう したあの、悲しい現実があるのも⼀⽅では事実なんですけれども、でも、その学校の中ではま ぁ、どっちが幸せなのかなぁ、というのを私はいつも考えています。先⽣を敬い、⽬上の⼈を 敬い、皆がこう、無いものを分かち合って協⼒していく。かつての⽇本では、どこにでもたぶ んあったような、まぁそんなものも取り戻していかなくてはいけないのだなというふうに思い ます。 ■戦争中、⽇本によくしてくれたミャンマー⼈、戦後その恩返しを続けてきた⽇本⼈ 私は、たまたま主⼈から⾔われてミャンマーに関わったんですけれども、ミャンマーはご承 知のとおり戦争の時に、多くの⽅が、多くの⽇本兵が亡くなった場所でもあります。三⼗数万 ⼈がビルマに向かって出兵していった、と⾔われていますけれどもそのうちの、⼆⼗万⼈以上 が亡くなっています。 私は⾊んな所でお話を聴いているんですけれども、ミャンマーの⼈たちって、だからと⾔っ て「⽇本が嫌い」ということはなくて、もちろんその当時のこと、いろんなことがあったと思 いますけど、それでも、「私たちは⽇本が⼤好きです。」っていう⽅たちがもう、本当にほと んどなんですね。なかなか、まぁ、「⽇本が嫌い。」という⽅は私に近づいて来ないというこ とはもちろんあるとは思うんですけれども、⽇本が本当に⼤好きな⽅たちが沢⼭いらっしゃる。 もう、親⽇的な国です。 で、当時、⽇本から戦争で向こうに⾏っていたという⽅とお話をするとですね、やはりもう 最後はみんな、もちろん武器もなく、そして⾷べるものもなく、病気になってマラリアになっ たりして、で、その餓死したり病気で死んでいく。ま、そういう中でですね、本当に極限状態 の中で、迷惑をかけるようなことも実は沢⼭したと…。それでも、その時ビルマの⼈たちは、 そういう、まぁ死にそうになっている⼈たちを、もしかしたら⾒つかったら殺されてしまうか もしれない中で、家でかくまってくれたり、飲み物や⾷べ物を分け与えてくれたりしたと。も う本当に、「⾃分は感謝をしているんだ」ということを⾔われていました。 で、その⽅は、その後、ずっとミャンマーから⽇本に来る⼈たちに奨学⾦を、もう普通の会 社員だったような、特別なお⾦持ちとかいう⽅では全くないんですけれども、奨学⾦を出し続 けてですね、多くのミャンマー⼈がその⼈のことをお⽗さんのように慕っている、というよう なことがありました。その⽅が、それでもまぁ、多くの⼈に迷惑をかけてしまっているので、なかなかですね、またミャンマーに戻って亡くなった⽅たちの慰霊をすることが出来なかった んだけれども、何年か経った時に、やはり慰霊に⾏きたいと思ってミャンマーに⾏ったそうで す。そしたらどこに⾏っても、みんなに温かく迎えてもらったと。それが⾃分は本当に嬉しか った、という話しをしておられました。その後その、奨学⾦を始められたんですけど、まぁそ んな国をこう、⾒ているとですね、まぁ⽇本ももう⼀度何か取り戻さなくてはいけないのかな、 というふうに思います。 ■カンボジアで貧しい⼦供のために献⾝的に働いている⽥中千草さんの話 先⽇、カンボジアにも⾏かせていただきました。カンボジアで、⽇本から、元々は⻘年海外 協⼒隊で⾏った、若い先⽣がいるんですね。その、⽥中千草さんという先⽣なんですけれども、 その先⽣はそこの学校に最初⾏きまして、で、⾳楽を教えることになります。⾳楽なんていう のは、普通そういう途上国では、まぁほとんど教えることはない。国語とか、まぁ、あの、算 数とか英語とか、というものは教えるんでしょうけども、なかなか⾳楽を、歌ぐらいは教えら れるかもしれないですけれども、楽器や何かも買えないですし、そういうものは普通はないん ですけれども、先⽣は「ぜひこの⼦達に⾳楽を教えたい」というふうに思われて、⾳楽をそこ で教えることになります。そして、私が⾏った時に、そこで⼦供たちが演奏してくれたんです けれども、本当に素晴らしい、ピアニカだったりとか、歌も謳って、演奏または合唱を聴かせ てくれました。 最初、2 年間で彼⼥はカンボジアに⾏くんですけれども、帰る時に「どうしても帰らないで 下さい」って⾔って、多くの署名を集められて、そして⼀旦彼⼥は戻るんですけれども、彼⼥ はまた、そこのカンボジアに⾏って、⼦供たちの教育にあたります。でも、その教育だけでも すごいと私は思って、その貧困地域にいるあの⼦たちをあれだけきちんと、歌がうたえて、演 奏が出来るように育てるということも素晴らしいな、というふうに思うんですけれども、彼⼥ はその、⾃分がいなくなったら出来なくなっちゃうのではダメなので、先⽣たちにまず教えた と。⾃分がいなくなった時でも、みんながそれを教えられるように、続けられるようにという ことで、まずは先⽣たちに教えたそうです。 そして、貧困地域の⼦供たちが売られていく、どんどん、その、親がお⾦が欲しいために、 あるいは騙されて⼦供たちを他の地域に売ってしまうという現実を⾒てですね、これを何とか しなくてはいけない、というふうに思ったそうです。で、今、シェルターを今度は作って、そ こにお⺟さんや⼦供たちを住まわせてですね、なるべく外に、そういう⼩さい⼦供たちが流出 しないようにしていきたいと。本当にちっちゃい、⼩さくて⼩柄でですね、細い華奢な先⽣な んですけれども、私が⾏った数⽇前には、やはり⼦供が売られていってしまったと…。 それを聞いて先⽣は何をするかというとですね、だいたい売られて⾏く場合というのは、国 境沿いのある地域から出ていくらしいので、もう⽬星を付けて、そこに⼦供を取り戻しに⾏っ たそうです。 で、そこに⼦供はいたんですけれども、彼⼥は持ち合わせのお⾦がほとんどなかったので、 お⾦と引き換えにすることが出来なくって、⼦供だけを引き取って返してもらって、彼⼥が代 わりに⼈質になって、しばらくそこに軟禁状態で置かれていて。そこに、まぁ、お⾦を持った 彼⼥の知り合いが来て、で、そのお⾦と引き換えにまた彼⼥は戻してもらった、というような …。まぁ、そんなすごい⽣活をしています。え〜、⽇本の⼥性はすごい逞しいなぁというふう に思いました。で、彼⼥はまだ三⼗代。本当に若い⼥性なんですけれども、⾃分のところでも売られていってしまうような、親が⾯倒を⾒れない⼦供を 5 ⼈ぐらい引き受けていて、⾃分の ⼦供ように 5 ⼈ぐらいいるんですね。 で、なおかつ私たちが⾏った時には、学校の⼦供の⼀⼈が、病院に⼊院することになってし まって、その病院に⼊院するには⼤⼈が誰か付き添わなきゃいけないと。で、その親は付き添 えないので、「先⽣、付き添って下さい。」ということになって、で、病院の床で彼⼥は私た ちが⾏っている間、寝て、2 時間ぐらい寝て…。そして朝になると、私たちのために通訳と、 案内のために朝から出てきてくれて、で、本当に嫌な顔ひとつせずにですね、通訳したり案内 したりしてくれました。 なんか、こんな⼥性がいるんだなぁ、なにかこう、⼿伝ってあげたいなって。本当に⼀⼈で ⼀⽣懸命頑張って、頑張って。で、百何⼗⼈の貧しい⼦供たちも、彼⼥はずっとこう、あの、 ⽇本からお⾦を預かって⾥親のようにですね、⾯倒を⾒てる、というか、そこにはまぁ家族が あるんですけれども、でも、ちゃんとした教育を受けられてなかったり、ちゃんとしたまぁ、 ⾷べ物を⾷べていなかったりするような家なので、ずうっと家庭訪問をするんですね。で、ま ぁ、お⽶を持って⾏ったり、まぁその、教科書持っていったりというのを最初は⾞もなかった らしいので、お⽶を頭の上にこう載せてですね、えー、⾬期になると、もうここら辺まで⽔が あったりするようなところもあるらしいんですけれども、そういう中を、⼀軒⼀軒お⽶を届け、 そして、「ちゃんとご飯⾷べてますか?ちゃんと⼦供たちは勉強していますか?」ということ を、⾔って、回っている。 その、「すごいなぁ!」というのはみんな⾔えると思うんですけれども、本当に実践してい るというのは、私はとても逞しい、こういう誰かのために⾃分を犠牲にしても、誰かのために ⼀⽣懸命やるという、それがやはり⽇本⼈の美徳なのかなぁと、彼⼥を⾒ていて本当に思いま した。ぜひ、あの、⽥中千草さんと⾔って、検索して頂いたらたぶん⾊々と出て来ると思うん ですね。寄付も集めているので、良かったら、あの、調べてみて頂いたらなぁというふうに思 います。 ■バングラディシュの「アジア⼥⼦⼤学」の活動も⽀援 教育というのは、あの、まぁ本当に⼤切で、そうやってまぁ、途上国でも⽇本⼈が⼊ってい って、いろんな教育をしています。私があの、バングラデシュで、⼀つ⽀援をしているのが、 『アジア⼥⼦⼤学』という⼤学です。そこもやはり、貧困地域の⼦供たちで、⾼等教育を受け られるような⼦供たちじゃないんですけれども、本来であれば。でも、とても優秀な⼦供たち。 奨学⾦を出して⼤学に通わせてあげる。そしてそこで、リーダーシップを学んでもらって、国 に戻ってもらって、国のために働いてもらおうという、そういう⼤学なんですね。で、⼥⼦、 ⼥⼦ばっかりの、⼤学です。私は、⽇本で、アメリカ⼈の⼈たちがその⽀援をしていて、頼ま れて今、⽀援を⼀緒にさせてもらっているんですけれども。数年前にチッタゴン、バングラデ シュのチッタゴンという所にある、⼤学の、⼤学を⾒に⾏きました。 で、そこで、その⼥⼦⼤⽣たちが、議論をしているんですけれども、その議論がもうとても、 建設的な議論をみんなしていて、感動しました。で、ある 2 ⼈はですね、確かパキスタンだっ たと思うんですけれども、紛争地域にある 2 ⼈の⼥⼦⼤⽣、学⽣なんですけれども。その、家 に戻ると、紛争地域にあるので、その、親であったり親戚同⼠であったりというのは、仲良く することは出来ないような、まぁそんな関係にある 2 ⼈なんですが…。 でも、私たちはその、紛争地域から来ていてもですね、お互いにこうして⼀緒に机を並べて 勉強をすることが出来る、すごく仲良くなれるかどうかは別にしても、ちゃんと同じ教室で仲 良くすることが出来るんじゃないかということを、議論をしていました。 私は、まぁ、こういうことが平和への道なんじゃないかなぁと、その時に思って、それ以来 ⼀⽣懸命あの、(※コップの⽔を飲む)⽀援をしているんですけれども…。ただ、「平和、平 和」という⾵に叫ぶのではなくてですね、最初の話しに戻ると、どうやったら平和を創ってい けるのか、ということを建設的に、この⼤学では(※咳き込む)、⼥⼦たちが学んでいる、と いうことが本当に素晴らしいというふうに思っています。 ■これからは⼥性の⼥性らしさ、⺟性、繋がる⼒、感性をもっと活かしていくべき で、あの、まぁ(会場に)男性が沢⼭いらっしゃるので、男性ももちろん素晴らしいんです が、これからは⼥⼦の⼒というのもですね、⾮常に重要なんだろうなというふうに思っていま す。⼥性が、(※再び咳き込む)ゴメンナサイ…、⼥性が今まで、もちろん、その、男性をサ ポートするという意味ではですね、活躍して来たと思うんですけれども、⼥性が前に出るとい うことが、なかなかこの⽇本の中では、保守の社会なので、え〜、好まれてなかったような気 がするんですね。(※コップの⽔を飲む)私は、⼥性の役割は、決して男みたいになることで はないし、男に取って代わって、その地位を求めるものもないと思っているんですけれども。 ⼥性は⼥性らしい、その、え〜、⺟性であったりとか、包み込む⼒であったりとか、繋がる⼒ であったりとかっていうものを活かして、もっと社会の中で活躍していくべきなんではないか な、というふうに思っています。 で、そのアジア⼥⼦⼤、私も⼥⼦校育ちなんですけども、アジア⼥⼦⼤学…。「なぜ⼥⼦な のか?」っていうことを話している時に、アジアの中にはイスラム圏の国もあるので、そうい う意味で⼥⼦の⽅がいいだろうというのは⼀つなんですが、「⼥⼦のリーダーは⼥⼦の中で育 つのではないか?」という意⾒もありました。あの、男性と⼀緒に育った⼥⼦がリーダーとし てダメ、っていうつもりは全然、もちろんないんですが、⼥⼦だけでいるとですね、男性に⽢ えることが出来ないので、⼥⼦の中で全部、あの、やっていかなくては⾏けない。 よく私が例に出すのは、あの、ゴキブリが歩いていると、(※咳き込む)ゴメンナサイ…、 で、男性がいると、え〜、男⼦学⽣がいたならば、⼥の⼦たちは「きゃぁ〜!」と⾔って逃げ る。でも、男の⼦がいなくて⼥の⼦だけの場合は、誰かしらがそのゴキブリをスリッパを持っ て殺すかもしれない。そういう意味では、え〜、まぁ⼥⼦の中で⼥⼦のリーダーが育つのでは ないかっていうのは、まぁ、もしかしたらあるのかもしれないなぁというふうに思ったんです ね。 で今までは、その、⾼度経済成⻑の間に男性たちがですね、本当に⼀⽣懸命こう、より強い 国、より⼤きくということで頑張ってこの国を発展させて来て下さったと思いますし、それは とても感謝をしなきゃいけないです。え〜、今豊かなこの⽇本があるのは、戦後そうやって 黙々と働いて下さったかたのおかげだというのはとても感謝をしていますが、今これだけこう、 成熟した社会になってですね、⼥性たちがそれをこう、先程申し上げましたように、繋がる⼒ で⼥性のその、感性を活かして、縦のその、男性的なものと、こう、⼥性的なものが組み合わ さっていくことによって、より豊かな社会が出来るのではないかと私は思っています。 ■安保法案には賛成。私の夢は「世界が平和になること」 で、あの、安保法案に反対することはもちろんないんですけど、私⾃⾝はものすごい平和主 義者で、「私の夢はなんですか?」と⾔われたら、本当に世界が平和になることだと最近はお 答えをしているんですけれども、どうやって平和を創っていくか、ということの⼀つはやはり、 みんなが繋がっていくこと。⼥性たちが繋がり、まぁ政治家は政治家のお仕事がありますけど、 そうじゃなくて⺠間レベルで政治家が繋がっていったり、あるいは、今まで弱いというふうに ⾔われていた、障害者であったり、病気の⼈たちであったり。また、まぁ LGBT みたいな⼈た ちであったり、そういうところが、あと⼦供たちですね、⼦供たちがもうどんどん世界に出て いって、世界と繋がって⾏くことが、私はこの平和に繋がるのではないかといういうふうに本 当に思っていて。 え〜、⾃分なりのこれから、こう平和を創って⾏くために、何が出来るのかなぁということ を、まぁいつも考えているところです。 ■北海道にある難病の⼦供たちのキャンプ場を訪問。健常の⼦供たちにも知ってほしい 私はあの、あちこち⾏くんですけれども、あの、この間、ちょっと話しはまた逸れますけれ ども、え〜、北海道に⾏って、滝川市(たきかわし)という所に⾏きました。その、滝川市に ある『空プチ Kids』っていう所を⾒に⾏ったんですけれども。まぁそこはですね、あの、⼩児 がんであったりとか、あるいは⼼臓病であったりとか、まぁ難病を持っているような⼦供たち、 学校にも⾏けなかったり、外にも中々出れない。そんな⼦供たちのための、キャンプをやって いる施設なんですね。で、3 泊 4 ⽇の施設が、キャンプを、その、普段は外に出れない⼦供た ちに体験をさせてあげようという、そうしたキャンプ上に、まぁキャンプ中ではなかったんで ⼦供たちには会えなかったんですけれども、そこの施設を⾒せていただいて、そのスタッフの 皆さんと懇談をさせて頂きました。 本当に、あの、ここはヨーロッパなんじゃないかしらっていうような思い、思うような、あ の、広々とした景⾊の中で、素敵なキャンプだった、キャンプ場だったんですけれども、外で 遊ぶことが夢だ、という⼦供たちがそこで、もちろんお医者様や看護⼠さんもいる中でですね、 え〜、キャンプをすると。⾃分は、すごく⼀番⼤変だと思っていたけれど、同じような境遇の ⼦たちが沢⼭いて、⾃分だけが⼤変なわけじゃないんだということを感じたり、あるいは、普 段、親御さんが⾃分のことばっかりに関わることになるので、なかなか他の兄弟たちが親と⼀ 緒に遊べなかったりという中でですね、家族や兄弟がものすごく⼀緒に楽しんでいる姿をみて 「それが何より嬉しい。」というふうに⾔っていたり。 3 ⽇間、たった 3 泊 4 ⽇の短い期間なんですけれども、⼤きく⼦供たちの⼼が変わっていっ て「もう⾃分なんか、夢はないんだ…」と思っていた⼦たちがですね、夢を語り始めるんだそ うですで、⼀⼈の男の⼦は、「9 年間⾃分は⽣きてきて、初めてお⽗さんのこんなに笑った顔 を⾒れて嬉しい。」と⾔って帰っていったそうです。で、あの、そういう⼦供たちが世の中に はいるんだよ、ということもですね、また、広くあの、普通の元気な⼦供たちにも分かっても らいたいなぁというふうに思います。 ⽇本では、あの、まぁ貧困は増えているというふうにも⾔いますけれども、やはりほとんど の⼦供たちは、他の国と違って、まぁ今、学校にも⾏ける状況ですし、いろんな物が⼿にも⼊ るんですけれども。まぁ⾃分たちが、あの、こうしていられるのは当たり前ではなくて、感謝 をしなくてはいけないという、本当にその感謝の気持ちをみんなに持ってもらうためにもです ね、まぁそんな⼦供たちと、普通の健常者の⼦供たちが触れ合うような、そんな場所も出来た らいいのかなぁなんて、あの、そのキャンプ場を⾒て思いました。 あの、もし北海道に⾏く機会がおありでしたら、ぜひその滝川市のキャンプ上を⾒ていただ きたい。ま、視察が沢⼭来ているということでしたけれども、スタッフの何⼈もの⼈たちはで すね、北海道出⾝ではないんですけれども、そこが素晴らしいということで、⼩さい 4 万⼈ぐ らいの市なんですけれども、移住をしていて、そこでその施設のために働いているという、そ んな所です。 ■瑞穂の国記念⼩学院で、⽇本の国を誇りに思える⼦供たちに育ってほしい え〜、ちょっとそろそろ時間だと思います。まぁ、なにか取り留めもなく、え〜、話しをし て来ましたけれども、あの、この瑞穂の国記念⼩学院が、無事に開校することによってですね、 そうした、あの、感謝の気持ちをもって、⼈の気持ちの分かる、そして、え〜、⽇本⼈として、 ⽇本に⽣まれた者として、この⽇本の国を誇りに思えるような、そんな⼦供たちが沢⼭育って ⾏って欲しいと思います。 ■平和とは、⾃分の⼼の中の平和から。信念と誇りを持つことが⼤事 あの、平和、また平和の話しに戻ります(笑)。平和はですね、まずは、やはり私は、外に あるんではなく、まずは⾃分⾃⾝の⼼の中の平和なんだろう、というふうに思っています。そ して、⾃分の家族であったり、地域であったり、学校であったり、⾃分の属する組織、そして、 まずは⾃分の国の、この国の中、が平和になって、それから、こう、外に向いて⾏く。平和に なることはやはり、信念を持って誇りを持つことが⼀つ⼤事なのではないかなというふうに思 っています。 ■⻑州で採れたお⽶を、⻑州を恨んでいる会津でお酒にしてもらった あ、もう⼀つ、全然またちょっと違う話しなんですけれども、え〜、私はあの、⼭⼝県で無 農薬のお⽶を作っているんですね。3.11 の後に、え〜、まぁ、⾷料が⼤事だということを思っ たのと、やはりまぁ、お⽶づくりというのは⽇本⼈としての基本だなぁと思ったので、ぜひ多 くの⽅たちに⼿伝って頂いて、お⽶づくりをしたいと思って、え〜、始めました。 で、去年から『⼭⽥錦』という、お酒になる酒⽶を作り始めました。そして、今年の初めに、 その、⼭⼝県で作ったお⽶を会津若松に持って⾏って、会津若松の『末廣酒造』さんという所 でお酒にしていただきました。え〜、なんでその会津かっていうと、まぁ⼭⼝県はその、⻑州 なんですね。で、会津と⻑州というのは未だに仲が悪いんです、実は。え〜、あまり関係のな い所の⽅は、あの、え〜、理解が、「なんで未だに?」と思われるかもしれないんですけれども、まぁ、会津の⽅はですね、やはりこう、まだまだこう、あの、恨みが(笑)どっかに残っ ているみたいで、え〜、実は仲があまり良くないと。 で、⽇本の中でそんなにこう、未だに仲が良くないということは、あの、良くないんじゃな いかというふうに思って、で、その「平和のお酒」にしたいなと思って、⻑州で採れたお⽶を 会津でお酒にしていただいて。私は、『やまとのこころ』っていう、あの、名前を付けました。 え〜、やはり⼤和の⼼はこう、結びの⼼でも私はあるんだろうというふうに思ってこう、今、 いろんなものがこう、分離されてしまってバラバラになっているものが、あるのをこう、合わ せて⾏くというような、まぁ、そんなお酒になって、それを飲んだ⼈が幸せになったらいいな ぁというふうに思って、え〜、付けました。 あの、それは⼀般にはあまり売らないんですけれども、もし東京に起こしの際は私はあの、 え〜、内神⽥で『UZU』というあの、お、お、ウフフ、(笑)、お店をやっています(笑)。 で、そこで、あの、まぁ⼀杯いくらにするか決めていないんですけれども、出させていただく ので、もし良かったら、あの、え〜、そのお味⾒にいらしていただければなというふうに思い ます。 え〜、本⽇はあの、お招きいただきまして有難うございました。本当にあの、なんかダラダ ラと、あの、皆さんの⼼に届いたかどうか分かりませんけれども、あの、⼀時間お話をさせて 頂きまして有難うございました。今度ともどうぞよろしくお願い致します。(※深くお辞儀を する) 第⼆部 ■名誉校⻑として素晴らしい⼩学校をお⼿伝いしたい。『安倍晋三記念⼩学校』の名前は総理⼤ ⾂を辞めてからなら OK (※保護者⼀同の拍⼿の中、降壇した籠池園⻑と、互いに深いお辞儀を交わし、昭恵夫⼈が 登壇。) 皆さんこんにちは。ご紹介頂きました安倍晋三の家内の、安倍、昭恵でございます。本⽇は お招きを頂きまして有難うございました。 瑞穂の国記念⼩学院、え〜、来年開校予定だったのが再来年に延びたということでございま すけれども、素晴らしい⼩学校が出来るということで、私もあの、名誉校⻑で私はいいのかし ら?(笑)と、思いますけれども。あの、何か籠池園⻑、そして副園⻑のもう本当に熱い熱い、 この国に対する、教育に対する思い。お⼿伝いできればなぁというふうに思っているところで す。 ご存知かもしれませんけれども、最初この、あの、名前をですね、『安倍晋三記念⼩学校』、 『瑞穂の国 安倍晋三記念⼩学校』ということにしたいというふうに、籠池園⻑からお話をいた だきました。本当に、名誉なことだと思いましたけれども。まぁ主⼈に申しましたところ、ま ぁ⼤変有り難いお話ではあるけれども、もし、あの、え〜、安倍晋三総理の名前がですね、こ う、もしかしたら⼦供たちにとって、負担になる時があるのかもしれない。いつもいつもその、安倍政権が、良い時ばかりではなくて、時には⼤きな批判に晒されることがあるかもしれない。 ま、そんな時に、⼦供たちが、その、⾃分の学校の名前を、どういう⾵に思うだろうかと。で きれば、この、総理⼤⾂という⽴場が終わってから、その名前を付けて頂いた⽅が、みんなに とって良いのではないか、ということだったので、今回はご辞退をさせていただきました。 ■主⼈も私も、「瑞穂の国⼩学院」の発展を望んでいる でもあの、『瑞穂の国』というのは本当に素晴らしい、名前の⼩学校だなというふうに思っ て、この⼩学校が沢⼭の⽣徒さんたちが集まられて、ま、発展していったらいいなぁというの を、主⼈も私も望んでいるところでございます。今⽇はあの、朝から来させていただきました、 あの、10 時の会の前にはですね、あの、園児さんたちが、ここに並んで⼤きい声で、「⼤学」 を暗唱してくれました。 ■「素読」で⼈間が変わることを知って「素読の会」を始めた あの、私は以前、知⼼学舎(ちしんがくしゃ)という、九州にある学校に⾏ってなかったり、 働くことが出来なくなった若い⼈たちのためにの施設を訪ねた事があるんですけれども、まぁ そこで、素読を取り⼊れていて、毎⽇、そこに⽣活している若い⼦たちがですね、畳の上に正 座をして、え〜、ま、四書五経を、暗唱するんですね、素読をしていて。で、その、ものすご く⼤きな声で、堂々と、その、読んでいる姿を⾒て、この⼦たちが、なんで学校に⾏かれなく なっちゃったような⼦たちなんだろう…、受け答えもきちんとしてくれました。で、いろいろ 話しを聞いていると、最初のうちは、⼤きな声を出すことも出来なかった。でも、⽇々練習す るうちに、もの凄く⼤きな声が出て、早く読めるようになって、え〜、暗唱することが出来る ようになって。 で、そうすると、その、⼈間⾃体が変わっていくんだと、ものすごくこの、芯が通ってくる と…。その、⼈間の、その、背⾻、そのものなんだというふうな⾔い⽅をされておられました。 そして、まぁ⼀年ぐらいそれを重ねて。えー、無事に学校や社会にその⼈たちは戻って⾏くこ とが出来ると。えー、ただ読んでいる、暗唱している、その意味を考えて勉強するわけではな くて、ただ⾔葉をこう、繰り返し繰り返し⼤きい声で、えー、発することによって、まぁそん なに⼈間に影響するものなんだろうか?ということを、私はビックリして、そして、素読の会、 というのを今、やっているところでございます。 ■塚本幼稚園の⼦供たちは凄い。その教育が幼稚園だけで終わってしまうのはもったいない で、それをですね、でも、あんなにちっちゃい、もう本当にあの、普通の会話もちゃんと、 普通だったら出来るのかしらというような⼦供たちが、あの難しいダイガクをですね、すらす らと朗々と、暗唱しているのを⾒てですね、あの、ほんっとうに、あの、すごいなぁと今⽇、 改めてこの、塚本幼稚園の凄さを感じました。 そして、きっとあの⼦たちが毎⽇のようにその、⾔っているその⾔葉は、えー、細胞の隅々 まで⾏き渡って、きっと、その、⼈間性を作っていくのに⼤きな役割を果たすと思うんですけ れども、ここの幼稚園だけで終わってしまってはやはり、勿体無い。せっかくその、え〜、まぁ⼦供の線が通ったのをですね、⼩学校へ⾏っても続けて⾏くことによって、太い、⽴派な芯、 にしていってもらいたいなぁっていうふうに思って。え、この、えー、幼稚園から⼩学校に、 こう、繋がって⾏くこの教育に⼤いに期待をしたいな、というふうに思っているところです。 ■幼稚園には何度か来ているが、こんなにお⾏儀の良い⼦供たちには会ったことがない 私は、以前にも何回かここの、えー、幼稚園に来させていただきました。あの、私は、あの、 いろんな幼稚園や⼩学校に⾏くこともありますけれども、これ程ですね、お⾏儀の良い⼦供た ちにあったことがほんっとう(本当)に無いんですね。で、パッとこう帽⼦をとって、ものす ごくきちんとご挨拶をして下さる。まず、最近はですね、挨拶が⼤⼈でもきちんと出来ない、 というのはね、本当に⼤きな問題であると思います。挨拶ってね、本当に、⼈間の基本で、え ー、まぁ夫婦であっても、うちもその、毎⽇「おはようございます。」と⾔い合っているかな と思うと、あやふやなところもあるんですけれども(笑)。でも、その、家族であっても夫婦 であっても、まず、朝起きたら「おはようございます。」、えー、ご挨拶がきちんと出来るっ ていうのは基本なんだろうなと。この⼩さい⼦供たちから私は、あのー、ここで教わっている ような気がいたします。 ■総理⽬前で病に倒れた義⽗。主⼈はそれを⾒ていて、来たチャンスは逃してはいけないと学 んだ 私は、あの、主⼈と結婚して今年で、28 年になります。えー、結婚当初は主⼈は、安倍の⽗ は外務⼤⾂をしていて、その秘書をしていたのですね。えー、まだ普通の秘書の奥さん、とい う⽴場でした。で、その後すぐに、えー、⽗が膵臓ガンの病気になりました。で、当時はです ね、今だとあの、すぐに「ガンですよ。」ということを当⼈に話すと思うんですけれども、そ の時、その当時はあの、本⼈には話しはしないような時代だったんですね。なので、周りはみ んな知っているんですけれども、安倍の⽗だけは⾃分が膵臓がんということを知りませんでし た。で、⼊院をして、えー、違う病名を、まぁ、あの、マスコミにも発表し、本⼈もその、病 名を信じてたぶんいたと思うんですけれども…。えー、どんどんですね、やはり、もう膵臓ガ ンですから完治することがなく、悪くなっていって、残念ながら亡くなってしまいました。 その間ですね、あの、病院から仕事に⾏くんですね。私は毎⽇、他にやることもなかったの で、主⼈と⼀緒に病院に⾏ってたんですけれども、フラフラになりながら出ていって、そして また、病院に帰って来てベッドの上にもう、本当に今にも死んでしまいそうな勢いでバタンと 倒れて⾏くような、安倍の⽗の姿を⾒ながら、(政治家っていうのは、命懸けの仕事なんだな ぁ)というふうに思いました。えー、どんどん痩せていく、⽗のために、安倍の⺟は少しでも こう、体格が良くみえるようにと、下着の中にこう、綿を⼊れたりして、少しでもこう、昔の 姿に戻すようにということをしていたりしていました。で、あの、病院から外に出ていくとそ れでも、政治家らしく振る舞わなきゃいけないということで頑張って、えー、いました。 総理⼤⾂も本当にすぐ、⽬前というところで、残念ながら、まぁ、病に倒れてしまって、ど んなにか無念だっただろうなぁというふうに思います。安倍の⽗もすごく⼈がいい⼈だったの で、中曽根さんがこの、次の総理を決める時にですね、まぁ当時はその、今みたいな形でオー プンではなくて、こう、密室で割りと決まっていたようなこともあって、中曽根さんが「⽵下さん」というように次を指名したんですけど、ま、その中では随分いろんな話し合いがおそら くあって、⽗は、あの、すごく⽵下さんと仲が良かったので、まさか⾃分が次に、その、後す ぐに病気になって亡くなるとは思わないので、「じゃあ、いいよ。⽵ちゃん先にやればいいじ ゃない。」というような話し合いがどうやら⾏われたのではないかなぁというふうに、みんな 周りは推測、まぁ⽗がそういうことを⾔ったわけではないですけれども、みんな推測をしてい ました。 しかし、残念ながらその〈⽵下さんの後〉、というのがなくなってしまったのですね。えー、 主⼈はそれをこう、間近で⾒ていて、来たチャンスは、やはり、いつ、それをまた次のチャン スがあるかどうか分からないから、掴み取らなきゃ⾏けないんだ、と。えー、〈チャンスの神 様は前髪しかない〉という。えー、まぁ必ずそこを掴んで置かないと(※掴み取るしぐさ)、 逃げてしまうんだということを、その時、学んだんだろうなぁというふうに思います。 ■17 歳からの持病で、1 年で総理を辞職。主⼈は無念でいっぱいだった そして、⼩泉総理の後にですね、多くの⽅たちが、「まぁまだ若いし、もう少し待った⽅が いいんじゃないか?」というご意⾒もあったんですけれども、えー、まぁ、ここでもし、えー、 国⺠の皆さんが期待をかけて下さるんだったら、命懸けで頑張ろうという思いで総裁選挙に出 ⾺をして、そして、第⼀期⽬、総理⼤⾂にさせていただきました。ま、⼀年間、私は本当に間 近で⾒ていて、(⼤丈夫かしら?)と思うぐらい頑張っていたと思いますけれども、えー、残 念ながら病気のために⼀年で辞めることになってしまいました。 ま、⽗の時、⽗はまぁ、総理⼤⾂にはなれませんでしたけれども、主⼈も総理として⼀年間 やってみて、⾃分がやりたいと思っていたことがまだ道半ばだったので、本当にその時になん で病気になっちゃったんだろうと、悔しい、無念な思いで本当にいっぱいだったと思います。 それまで、えー、潰瘍性⼤腸炎という病気、17 歳からずっと持っていたんですけれども、まぁ 良い時があったり、悪い時があったり、えー、でも、段々とですね、発症しなくなって、そし てもう、体⼒にある程度⾃信がついたということもあって、えー、出たにも関わらず、えー、 その、たい、体調のために辞めるというのは本当に悔しかっただろうな、というふうに思いま す。 ■それまでに実は何度も⼊院。「政治家を辞めたら」と⾔ったこともあった で、私はあの、何度か「政治家をやめたらいいんじゃないの?」と⾔ったことがありました。 まぁ、あの、総理辞めた時も「もう、辞めたら?」って⾔ったんですけれども、その前にもで すね、実は何回も⼊院、⼊退院を繰り返していることがあって、えー、まぁ⻑い時で 2〜3 ヶ ⽉⼊院をして、3 ヶ⽉近く⼊院をしていました。で、政治家は、あの、⾝体が弱いということ が、まぁ、致命傷である、というふうに思われているのでですね、主⼈は病気であるというこ とは絶対に⼈には⾔ってはいけない、ということで私も、その、主⼈が⼊院しているというこ とは誰にも⾔えない。ま、私の親とかぐらいには⾔ってましたけれども、それ以外にはあまり 友達とかにも⾔っていなかったんですね。 で、地元の⼭⼝県の選挙区の会合なんかも、主⼈が⾏かれないので私が代わっていろんなところに出なくてはいけない。で、まだ若い時だと、いつもいつも奥さんが代理で来ていて、 「なんで本⼈が来ないんだ?」と、「こんなに⼀⽣懸命に応援してあげて、本⼈が来るって⾔ ったのに、どうして来ないんだ?」って⾔って責められるわけですね。でも、「ほんっとう (本当)に申し訳ございません。ちょっと東京で⼤事な⽤事がございます。」と⾔っていつも 私は嘘をつかなくてはいけない。 ■病気を隠してずっと嘘をついてきたが、辞職後公表したら、多くの⼈から励まされた で、病気で苦しんでいて、えー、それでも(仕事を⼀⽣懸命しているような⼈たちが世の中 には沢⼭いるんだから、むしろ病気でも政治家をやっていますと、堂々と⾔った⽅がいいんじ ゃないか?)って私はちょっと思っていたんですけれども。でも、政治の世界というのはそう いうものではなくて、⾝体が弱いとなったらすぐに⾜を引っ張られてしまうと。主⼈はそれを きっと、恐れていたのかもしれないですし、とにかく⼈に⾔ってはいけない、と⾔われてずう っと、まぁ嘘を突き通して参りました。 しかし、その、えー、総理を辞めて病気になってしまった。で、「⾃分はこういう病気を実 は持っていたんです。」、ということを話すことになりました。そうするとですね、やはり、 多くの⼈たちがですね、「⾃分も同じような病気を持っているんです。頑張って下さい。」と ⾔って患者の会の⽅たちから沢⼭のお励ましをいただきました。まぁあの、主⼈が、最初発病 した 17 歳の頃というのは、潰瘍性⼤腸炎という病名すらも分からないくらい患者さんが少な かったらしいですけれども、まぁ今は、本当に患者が増えて、まぁ難病ではあるんですけれど も、割りとこう、お薬もいいお薬が出て来ましたし、完璧というとちょっと違うかもしれない けど、かなりあの、えー、皆さんが知っている病気になってしまいました。 ■辞職は主⼈の⼈⽣初の挫折。そのあとも「⾃分が総理だったら」と考え続けたことが今の政 権に繋がっている で、いろいろそういう経験を経て、で、ま、辞めることになってしまって、すごく残念では あったんですけれども、でも、あの⼈⽣ですね、あの、主⼈もその、祖⽗も政治家、まぁ両⽅ の祖⽗も政治家、⽗も政治家、まぁ⽗は早くなくなったとはいえ、外務⼤⾂とか要職を歴任し て⽴派な政治家でした。で、そこの家に⽣まれて、えー、⼀回も選挙に落選をすることもなく、 えー、トントン拍⼦にまぁ⼈から⾒れば、苦労もあまりしないままにこう、偉くなってしまっ たように⾒えたと思います。主⼈⾃⾝も、他の、政治家の家に⽣まれていなくって、⾃分でそ の、政治の道を志して選挙を勝ち抜いて来たような同僚の先⽣⽅を⾒ていて「すごいなぁ、あ の⼈たちは…。」というふうに⾔っていることもあったので、どっかでやはり、⾃分にはそう したものがない、というふうに思っていたのかもしれないんですけれども。その、えー、⼤き な、ある意味主⼈にとって初めての挫折、というのが、今の主⼈に繋がっているのではないか なというふうに思っています。 その後、⼊院をしていて退院をして、まぁ徐々に元気になって⾏くんですけれども、そうす ると、えー、座禅に通ったりですね、ジムに通ったり、ランニングをしたり、まぁ多くの本を 読んだり、⼈に会ったり。とにかく出来ることは何でもやろうという感じで、⾮常に努⼒をし ていました。えー、残念ながら、えー、次の選挙で⺠主党政権に変わってしまったので、す、 その、もし⾃分が総理⼤⾂だったらこうする、というような事をですね、ずうっとノートに書 き綴っていたと思います。たぶんそうして、ずうっと考えていたことが、今の政権でやっていることに繋がっているのではないかなぁというふうに思っています。 ■辞職後初の選挙で⼤勝。主⼈の覚悟を本当にすごいと思った その次の選挙はすごく厳しい、⺠主党政権に変わった、⾃⺠党が⼤敗した選挙でした。主⼈ は、えー、⾃分が総理⼤⾂を辞めて初めての総選挙ですし、(ここで皆さん⽅にちゃんと承認 をしていただかなければ、⾃分の政治⽣命は終わる)というふうにも思っていたと思うんです けれども、えー、ほんっとうに(本当に)初⼼に戻ってですね、何百件ものミニ集会、えー、 本当に⼗⼈⼆⼗⼈の⼩さい集会をずうっとして、回って、いましたし。えーまた、ま、選挙の 前は、暑い中、⼀軒⼀軒、⺠主党のポスターが貼ってあるおうちまでも、えー、⾃ら歩いて回 って、「⾃分のポスターを貼って下さい。」って⾔っていってお願いをしたりしていました。 えー、これぐらい本気なんだなぁと、この⼈、本当にまだまだ政治家としてやるつもりなん だなぁと思い、私⾃⾝もそこでまぁ、覚悟を決めたような感じではありましたけれども、⼈に よってはですね、「元総理⼤⾂がそんなにあの、新⼈のような這いつくばった選挙をするのは 逆効果だし、堂々としてもらいたい。」というふうに⾔っていた⼈がいました。しかし、主⼈ は政治家の勘としてですね、今回の選挙は本当に厳しいというのがよく分かっていたので、⾃ 分が出来ることは全てやり尽くすんだという思いでですね、⼈から何を⾔われようが⾃分のや り⽅で選挙をして、そして、えー、多くの同僚議員が残念ながら落選をされる中で⼤勝をさせ ていただきました。やっぱり私はそれを⾒ていてですね、本当にすごいな、と思いました。 ■主⼈は⾃分の選挙区に帰れないので、代わりに私が候補者のように選挙運動 で、それまでの選挙もですね、あの、主⼈は⾃分の選挙区に帰れないので、私が代わりに全 部選挙カーに乗って、そして、えー、演説会に出てという、全ての⼯程を私が候補者のように やるんですけれども、で、まぁ、私はあの、みんなの気が緩まないように、あの、ただひたす ら⼀⽣懸命、そ、その、えー2 週間選挙をするだけなんですが、主⼈はですね、あっちゃこっ ち、えー、全国、同僚議員の、えー、応援に回るんですね。その間に、ずうっっと⾃分の後援 者に、⼀⼈⼀⼈携帯電話に電話をかけ続けます、「よろしくお願いします。」と。で、絶対に 何かやる時にその、気を抜かない。で、最後まで⾃分が出来ることを、えー、全⼒でやる、と いう。やっぱりそれは、あの、えー、私は(彼の本当に素晴らしいところだな)と、夫ながら 思っているところですし、まぁ、今の⼆回⽬の安倍政権も、⾃分が出来ることをほんっとうに (本当に)精⼀杯やろうと思って、えー今、命懸けで頑張っているところで。 ■主⼈は信念をまげず、本当にこの国の将来を考えて物事を決定している まぁ最近はですね、まぁ安保法案のこともあって、ちょっと⾵邪を引いたり、あの、週刊誌 には『吐⾎をした』というような報道もされました。それはもう、(※⼒を込めて)100 パー セント嘘で、まったくそんなことはないんですけれども、えーなぜかそんな嘘の記事が出てし まったりしたんですけれども、それでも、あの、⾃分が出来ること、これをやることがこの国 にとって、本当に必要なことであるから、えー、岸の祖⽗が、その安保法案通した時もですね、 もうあの、家の周りまでもう、本当に⼈で溢れていて⼤変だったそうです。で、その時まだ主 ⼈は⼩さかったので、あの、その、家の中にいて、えー、「アンポホウアン、アンポホウアン」というのを聞いて、⾃分も「アンポホウアン」というのが何のことだか分からずに⼝に出して いたというふうに⾔ってますけれども…。 えー、どんなに⼈から⾔われようが、⾃分の信念、この国の本当に将来を考えて物事を決定 するのがリーダーの責任であるということをですね、えー、たぶん祖⽗を⾒ていて、えー、⼦ 供ながらにしっかり学んでいたのがまぁ今、活かされているのかなというふうに思っておりま すので、どうか皆様⽅には、あの、ご理解をいただければなぁというふうに思います。 ■戦後 70 年の終戦記念⽇には特攻隊の基地があった知覧に⾏ってきた 今年は、戦後 70 年、あの、本当に節⽬の年で。まぁ多くの⽅たちは、⾃分の国の国防とか、 戦争とか、平和とか、そういうものを改めて考え直した年だったんじゃないかなぁというふう に思います。で、私は、8 ⽉ 15 ⽇の終戦の記念⽇に、今年はどこで、戦後 70 年の記念すべき 年でもあるので何処で過ごそうかなぁ、というふうに思って。えー、知覧に⾏って来ました。 初めて、えー、知覧に⾏って来たんですけれども、そこで、特攻隊で知覧から⾶び⽴って⾏っ た⽅たちが、過ごした、最後を過ごしたという⾷堂であったり、旅館であったり、書き残した お⼿紙であったり、沢⼭のものを⽬にしてですね、⼆度と戦争を起こしてはいけないという思 いを強くすると共に、本当にその、この⽇本の未来を思って、そして、⾃分が⾶び出って⾏く ことが、この国のためになるんだと思っていた若者たち、のことをやはり私たちは忘れてはい けないんだなぁということを、まぁ改めて感じました。 えー、17 歳、18 歳、えー、本当に多感な、もう今から⼈⽣を楽しむんだという若者たちが ですね、国のために⾃分の命を捧げるというのは、どんなに勇気がいることだったのかぁとい うふうにも思いますけれども、まぁそこには、泣き⾔もなくですね、家族であったり、えー、 まぁ結婚している⼈たちは、えー、まぁ特攻の場合は来なかったとは思いますけれども、特に ⺟親だったり、兄弟であったりという、ある⼈は妻であったりに対するその、思いをつらつら と、その後に、本当に良い世の中を作って欲しいというようなことを書いてあるのを⾒てです ね、もちろん、泣いたこともあるかもしれない、若いから⽣きたいという思いも強かったし、 なんで戦争になっちゃったんだという悔しい思いもあったかもしれないけれども、でもそこに、 ⾃分の命をかけてこの国を守りたいと、思っていた若者たちがいるということは、ほんっとう に(本当に)事実だと思うんですね。で、それを、なんかあの、「戦争を美化している」とい うような⾔い⽅で⽚付けるのは簡単かもしれないですけれども、私たちはその、彼らが命を懸 けて守りたいと思ったものを、本当に今、守れているんだろうか?っていうことを改めて、こ の戦後 70 年、考え直さなくてはいけないんじゃないかなぁということを、まぁ知覧に⾏って 思いました。 まぁそこに、えー、⿃浜(トリハマ)…、ん?、トメさん…?、ん?ナニ浜でしたっけ…、 ええっ、トメさんというその、えー、えー、⾷堂をやっているまぁ、あのオバサンがいて、で、 その⼈が、その特攻の⼈たちをこう、⼦供のように可愛がっていたそうです。そこで、えー、 暖かい⾷事を⾷べさせてあげたり、本当は、えー、⾨限があるので、何時までに帰らなきゃい けないというのがあるんですけれども、夜遅くまでお酒を飲ませてあげたり。 時には、韓国籍に⼈がそこにいたそうですけれども、えー、仲間外れになっているようなそ の⼈にとっても、まぁ⽇本の兵、兵として⾶び⽴って⾏く彼に対して温かい⾔葉をかけてあげ たりと、まぁ、いろんなストーリーがそこには残っていました。で、まぁ改めてその、あ、あ、その特攻隊のその、お⼿紙を読んで本当に涙を流しながら、えー、東京に戻って来て…。これ はやっぱり、靖国神社にまた⾏かなくてはいけない、と思ってですね。 ■靖国神社を参拝したことをフェイスブックにアップ。批判のコメントはあまりなかった で、それでそこに、靖国神社をお参りをさせていただきました。私はあの、もちろん、あの、 何回も靖国神社を参拝をしているんですけれども、えー、前回の時も、初めて、その時じゃな い、その前に⾏った時に初めて、まぁフェイスブックに、えー「靖国神社を参拝しました。」 ということを書きました。えー、それはちょっと新聞記事にもなったんですけれども。今回も あの、「靖国神社を参拝しました。」というのをフェイスブックにアップさせていただきまし た。それも、ちょっと書いた記事はあったようですけれども、でも、⼤きな問題になった様⼦ もなくてですね、私のフェイスブックのコメント欄には、えー、「ありがとうございます。」 というコメントがほとんどで、それに対する批判的なものはあまり、ありませんでした。 ■総理⼤⾂が靖国神社を参拝してもいいのでは、と思っている あの、沢⼭の⼈は本当は分かっていて、えー、主⼈にも、主⼈にもというか「⽇本の総理⼤ ⾂には靖国を参拝をしてもらいたい」と、「靖国で会おうね」と⾔って、お国のために亡くな って⾏った⽅たちがそこで、その御霊が集まっているんだとすれば、まぁ総理⼤⾂としては、 私は、あの、(参拝しても本当は良いのかなぁ)というふうには思っています。まぁいろいろ あの、まぁ隣国との関係等々、ありますけれども、でも、本当は⽇本⼈としてはですね、うー ん、(そこは、他の国を気にすることではないんじゃないかなぁ〜?)と、私は個⼈的にはあ の、思っている、ところです。 ■外遊に同⾏してパプアニューギニアに。戦争中、⽇本兵はいいこともしているのに、メディ アは報じない パプアニューギニアという国に、あの、主⼈の外遊について⾏きました。えー、(※聴取不 能 ウエガクチー?)地⽅というところに⾏ったんですけれども、そこはですね、あの、そこ の州知事さんというのは、パプアニューギニアの⽗と⾔われて、パプアニューギニアを作った 元⾸相です。で、すごく⽇本に感謝をしていて、主⼈が⾏くということで、⽇本の総理が来ら れるってことでですね、その⽇、その地域をお休みにして下さいました。休⽇にしたんですね。 なので、その、村中の⼈たちはみーんな、あの、⾶⾏機が着いたらば出てきてくださって。 で、えー、なにか踊っているんですね、もう。で、横断幕にはあの、安倍総理、〈ようこそ! 安倍総理〉という、まぁちょっと読めないような⽇本語もあるんですけれども、でも、すごく あの、えー、温かい⾔葉で、えー、綴られているものがいっぱい各地にみられて、みんな踊っ て歓迎をしてくれました。そして、あの、普通はまぁその、外に⼈がいる場合は「あんまり窓 を開けないで下さい。」と⾔われるんですけれども、私たちはそこを窓を開けさせてもらった ら、お花がどんどん、投げ込まれて。それがたぶん、歓迎の印だったんだと思います。 で、なんでそんなに、えー、⽇本が好きなのか?パプアニューギニアでも、あの、⼗何万⼈の⽇本兵が亡くなっていて、その慰霊碑をお参りするというのが⼀番の、主⼈の⽬的だったん ですけれども、えー、おそらく、まぁそこで戦闘が繰り広げられていたりすると、そこの地域 の⽅々にはご迷惑もきっとお掛けしていたはず、なんですけれども、えー、⼤歓迎。私はその、 元⾸相、州知事に、「なんでこんなにご迷惑をおかけしたかもしれないのに、歓迎して下さっ て⽇本のことが好きなんですか?」っていうふうに伺いました。 戦争と、その、⼈間は違うんだと。戦争は恨むけれども、決して⽇本⼈は、えー、恨むよう な⼈たちではなかったと。で、そこに、えぇと…、ちょっと名前、忘れちゃったんですけど、 ある⽇本の中将が来られて、で、⼦供たちのために学校を作ったそうです。えー、「当時そこ の地域は、学校が⼀つもなくて、⼦供たちは全く読み書きも出来なかった。それが⽇本の兵隊 さんが来て学校を作ってくれた。」と。で、そこにその⾸相は通っていたそうです。で、そこ で、えー、まぁ簡単な読み書きを習うようになって、少し英語も勉強したのかもしれません。 少しの⽇本語も勉強したのかもしれません。で、学ぶということの素晴らしさを、えー、そこ で学ぶことが出来たと。で、「⽇本兵が撤退してしまうと、またその学校はなくなってしまっ たので、残念ながら僕たちは、また学校がない⽣活になってしまって、でも、学ぶことの素晴 らしさを教えてくれた⽇本⼈には本当に感謝をしている。」という話を聞かせてもらいました。 で、そういう話っていうのはですね、そこのパプアニューギニアに⾏っている、取材をして いる報道陣は聞いているはずですし、取材もしているはずなんですけれども、まぁほとんどの メディアは取り上げてくださらないんですね。⽇本⼈が戦争中に悪いことをしたっていうこと はいくらでも出すんですけれども、戦争中にもいろいろないい話も沢⼭あるんですね。それは 「戦争を美化しているんだ。」ということで、えー、なかなかメディアに出て来ることはない。 でも、みんなが戦争に⾏きたかったわけではもちろんないけれども、でもそこで、えー、⼀⽣ 懸命、そこのためにも頑張っていた⼈たちもいるんだということは、事実として私は広くこの 先も、伝えていくべきなんだろうなぁというふうに、そのパプアニューギニアに⾏った時に思 いました。 ■パラオでも⽇本⼈は⼤変感謝されている。こういうことを⼦供たちに伝えなくてはいけない でも、パラオもそうですよね。まぁパラオのお話は先⽇、天皇陛下が、えー、パラオに⾏か れたので皆さんもご存知だと思いますけれども、パラオの現地⼈と⽇本⼈と⼀緒に、訓練をし ていた。で、そこに、外から敵が来るということになって、で、パラオの⼈たちは⼀緒に、⽇ 本兵と⼀緒に戦えるものなんだと思っていたら、えー、その、えー、⽇本兵の将校が「お前ら みたいな⼟⼈と俺らを⼀緒に戦えないから出て⾏け!」って⾔って出ていかされた。えー、結 局、信頼していた⽇本⼈も⾃分たちのことをそんなふうに思っていたのか、というふうに、残 念に思って彼らは出ていくわけですね。で、えー、船がずうっと⾒えなくなって⾏ったら、バ ァ〜っとその、⽇本兵が出てきてずうっと⼿を振っていたと…。(※感極まって涙声。続いて 涙を右⼿で拭いながら、)私はこの話をするといつも涙が出るんですけれども、(※深呼吸) ⽇本の⼈たちは、その「現地の⼈たちの命は絶対に奪ってはいけないんだ」というので逃した んですね。 なので、今でもパラオの⼈たちは、ほんっっと(本当)に⽇本⼈に感謝をして、で、天皇陛 下をお迎えする時に、私の知り合いがパラオに⾏ってましたけれども、「⽇本でこんなに⽇本 の国旗を⾒たことがない!」というぐらいの、ものすごい数の⽇本国旗で(※再び感極まって 涙声に)、えー、天皇陛下をお迎えして下さったそうです。で、そういうことをですね(※涙を左⼿で拭いながら)、もっともっと⽇本⼈は本当は知らなくてはいけないし、⼦供たちにも 伝えて⾏かなくてはいけないんだろうなっていうふうにいつも思っているところです。(※再 び涙を左⼿で拭いつつ、ひととき壁時計に視線をやる) ■皆さんの要望を主⼈に伝えるのが私の仕事――被災地の防潮堤問題 私⾃⾝の、ちょっと戦争の話はもう終わりにして。えー、私⾃⾝の今の、活動を少しだけご 紹介をさせていただきます。あの、いつもいろんなところで話をさせていただいているのが、 あの、被災地の防潮堤の問題なんですね。 私は何度も被災地に⼊っていって、いろんな⽅とお話を伺って、そして、皆さんのご要望を 主⼈に伝えるのが私の仕事だっていうふうに思っているんですけれども。その中で、なかなか その、皆さんからの声があがらなかったんですが、私がふと(防潮堤ってどうなんだろうな …?)っていうふうに思って、で、ずうっと、その防潮堤問題を未だにこう、追いかけていま す。えー、津波で沢⼭の⽅が亡くなりました。沢⼭の家屋も流されました。で、国はその、え ー、防災として新しく⾼い防潮堤を国のお⾦で建ててもいいですよー、ということを決めたん ですね。各県や、地⽅⾃治体、市は、それならじゃあ(⾼さの)⾼いものを建ててもらいまし ょうということを決めました。 その、震災直後っていうのは、多くの⽅たちが怖い思いをしているので「⾼い防潮堤を建て てもらいたい」、それで「私たちの命を守ってもらいたい」と思ったのは当然だと思いますし、 それを国が、全部作ってくれるなら、じゃあ作ってもらいましょうと決めた、県や市を責める つもりも全然ないです。もし、私がその場で市⻑だったらば、「あぁ、じゃあ、ぜひお願いし ます。」ときっと⾔っていたと思うんですけれども、でも今はもう、震災から 4 年以上経って、 えー、⾼いところで 14.7 メートルもある、ビルで⾔ったら 4,5 階もあるような⾼いコンクリ ートで、海が覆われて⾒えなくなってしまって本当にいいんだろうか?もしかしたら、海の⽣ 態系がそれで変わってしまって、⿂が捕れなくなってしまうかもしれない。次に津波が来た時 は、津波が⾒えなくて、むしろ逃げ遅れるかもしれない。海の近く住んでいるという意識が失 われて、危険なのかもしれない。 いろいろなことを考えるとですね、えー、そんなに⾼いもの、まぁ全てがそんな⾼いわけで はないんですけれども、7 メートルのところもあれば 10 メートルのところもあれば、まぁ低い ところは 5 メートルのところもありますけれども。(※深く呼吸してから)もう⼀回、⾒直し ても良いんじゃないかなと。全部を造ると、最初は 8000 億円と⾔われていたのが、まぁ今は どんどんあがって⾔って、1 兆超えると⾔われています。そのコンクリートの壁に、1 兆円か けるんだったらば、まだまだ仮設住宅に住んでいる⼈たちも沢⼭いるんですから、そっちを先 にするべきなのではないかと私は単純に思ってしまうんですけれども。その、予算が、えー、 この防潮堤に付いた予算を、仮設住宅に回すわけにはどうやらいかないらしくて、えー、なか なかその、動かない問題なんですね。 ■復興庁の政務官に、防潮堤に反対する⼈たちの話をぜひ聞いてほしいと頼んだ で、先⽇、⼭本朋宏先⽣という、衆議院議員の若い先⽣が、まぁ違うことで私のところを訪 ねて来て下さいました。で、その時に、彼は今、復興庁の政務官なので、「防潮堤を⾒に⾏こ うと思うんですよ。」と。で、私がずっと防潮堤の問題をやっているのをご存知なので、「防 潮堤をみたい。」と復興庁に⾔ったら「⾒ないで下さい。」と⾔われましたと。で、本当に良 い物を造っているんだったら、「政務官、ぜひ⾒て来て下さい!」というのが私は本当だと思 うんですけど、「どうして⾒ないで下さいって⾔うのかしらね?」って⾔ってたんですね。で、 えー、じゃ、「どうしても⾒に⾏きたい。」って⾔ったら、「普通の、えー、もの(既存の防 潮堤?)を⾒て下さい。」と。で、『「(※聴取不能 エルワン?)という⾼い防潮堤は⾒ない で下さい。」って⾔われました。』と。 で、(どういうことなんだろう…?)って、それはやっぱり復興庁も、「⾼い防潮堤はおか しい、⾒てもらいたくない。」っていうふうに思っていることなのかなぁっていうふうに思い まして、えー今度、⽊曜⽇、⾦曜⽇で⼭本政務官は、えー、気仙沼、えー、陸前⾼⽥等々を、 防潮堤を⾒て回るんですけれども。その時に、もちろん「復興庁からこの⼈に合って下さい、 この⼈の説明を受けて下さい。県や市から出て来るご説明も⼗分に聞いて下さい」と、でも、 私が普段お付き合いしているような『「防潮堤を造ってもらいたくない。」という普通の、⼀ 般の⼈たちの話もぜひ聞いて下さい。たぶん、復興庁は嫌がると思うけれども、政治家はやっ ぱり、私はそれが仕事だと思うので、そういう⼈たちの話も聞いて下さい。』』と。 ■総理の妻には、多少の発信⼒や影響⼒があっても、何の権限もない 私には、総理の妻で、多少の発信⼒や影響⼒があるにしても、私には何の権限もないので、 今どうしていいか分からない。その、政務官の先⽣が、少し関わって下さることによって、き っと何か動いてくるんじゃないかなぁと思って、えー、私はとても期待をしています。 ■誰も責任を取らない、⼀回決まったことは動かせない、この国の仕組みは歪んでいる えー、私は別にあの、国のやっていることをケチつけようと思っているわけでは全くないん ですけれども、あの、本質的に何が⼤事なのかっていうことを、みんながちゃんと考えられな くなってしまっているということ、とっても危険なんじゃないかなっていうふうに思うんです ね。もう、「⾃分で責任を取りたくない!」って思う⼈がすごく多くて、もう国は、「そうは ⾔っても県が造って欲しいっていうから予算を付けたんだ」、で、県は、まぁ最初はですね、 それでも「正義のために造るんだ。」って⾔われてたりもしたんですが、もう今は段々ちょっ と変わって来て、「国が造れと⾔ったから、県は決めたんだ。」、で、市は「県に⾔われたか ら、あの、市は造るんだ。」というような感じで、もう誰もその、えー、責任を取らない。そ してその、ある時みんな、その、住⺠が気がついたらドーンっと⼤きい壁が出来ていて、美し いリアス式海岸が⾒えなくなってしまっているというのは、ほんっとう(本当)に私はいいん だろうか?と、みんなに声をあげていただきたいと思っています。 えー、2020 年東京オリンピックが決まりました。まぁ国⽴競技場の問題、エンブレムの問題、 いろいろありますがきっといい、オリンピックになると私は思っています。そしてその時に、 多くの海外からのお客様が東京に来られて、えー「⽇本っていい国だ、⽇本のポスピタリティ は素晴らしい!」と思っていただくために、みんながこう、どういうことをしたらいいんだろ う、って考えています。で、私は、沢⼭の国の⽅たちに、ご寄付を頂いて、その、それが復興 に回っていたわけですから「こんなふうに皆さんから⼿伝っていただいて、お助けいただいて、 復興が進んだんですよ」というところを、東北も⾒ていただきたい。多くの外国⼈の⽅に⾏っ ていただきたいと、「こんな、素晴らしい復興をしました!」というところを⾒ていただきた い。 で、その時に、その、コンクリートの壁がバァ〜ってなってたら、その、「これが⽇本の復 興なんですか?これが⽇本の防災なんですか?」と、このギジュツ、「技術国⽇本はまだ、未 だにこんなことをやっているんですか?」って、私は思われてしまうんじゃないかなっていう ふうに思って、えー、未だに、でも、もう、⼀回決まったことっていうのが、「おかしい」と 思ってもなかなか動かす事ができない、この国のこの仕組みが、⽇本は本当に世界からみて素 晴らしい国なんですけれども、やはりちょっと、えー、そういう歪んでしまっている部分もあ るのかなぁっていうふうに思っています。 ■関わっている「⾼校⽣未来会議」で防潮堤問題を提案したら、⾼校⽣がアクションを起こし てくれた で、そういう中でですね、⾼校⽣たち。今、『⾼校⽣未来会議』っていうのをやっていて、 で、そこに私も関わらせていただいているんですけれども、全国の⾼校⽣たちが集まって、⾃ 分たちがあの、「こういうことが課題だと思う」ということを、えー、グループごとに別れて、 話し合って、それを発表することをしています。もう今頃の⾼校⽣って、ほんっとうに(本当 に)優秀でですね、すっばらしい(素晴らしい)、パワーポイントを使ったプレゼンをしてく れます。 で、その⼦たちが、防潮堤のことを私がまぁ、考えてもらいたいといって課題にあげた時に、 えー、そして、何⼈かの⼦たちは、⼀緒に東北まで⾏って、現地を視察をしてくれました。で、 やっぱり彼らも「これはおかしい!なんとかしたい!」。 ⼤⼈の⼈たちはなかなかアクションに繋がらなかったんですけれども、⾼校⽣たちは、⾃分 たちでその、防潮堤が出来て⾏く様⼦を写真に撮って、それをアーカイブ化して⾏きたいとい うことを⾔ってくれました。そして、⾃分たちにしか、えー、出来ない、例えば、えー、その 推進側の⼈たちへのインタビューみたいなものも撮りたいと。で、反対してる⼈たちの意⾒も 撮ってきたいと。で、それを、みんなで共有して、えー、次、もし他の所で震災がまたあって、 津波が起こってしまって流されるということがあるかもしれない。その時に、どういう復興を していくか、と⾔う時に考える材料にしたい、ということを⾔ってくれています。 そして、住⺠、まぁあの、⾏政側は「説明会をしました。」というふうに⾔っているんです けれども「住⺠の合意形成は 100 パーセント取れています。」という所も実はあったんですけ れども、全くあの、事実上はそうではなくて、あの、⼀部の⼈たちが合意をまぁ、上⼿くまと めたというだけの、だったので、住⺠の合意形成というのは⼀体何なのか?、あるいは⺠主主 義って何なのか?、根本的に何なんだろうか?ということを考える、⾃分たちの教材にして⾏ きたいというふうに⾔ってくれています(※コップの⽔を飲む)。 ■⼈と違っていていい、もっと⾃分の考えを⾔っていいと、⼥⼦⾼校⽣にアドバイス その⾼校⽣たちに期待をしたいなぁというふうに思っているんですけれども、まぁ先⽇も、 あの、若い⾼校⽣・⼤学⽣、⼥の⼦たちが来て、あの、公邸で、「⼥性が活躍するためにはど うしたらいいか?」、⼥性のまぁ⽣き⽅だったりとかについて、と働き⽅とかについて、話を してくれたんですね。(※コップの⽔を飲む。)それは、⾼校⽣も⼤学⽣も、きちんとしたパ ワーポイントを使って、いろんな調査の結果、グラフだったりとか、ここはこうなっています っていう、もう素晴らしいような、⼤⼈顔負けのプレゼンでした。(※咳き込む)で、若い⼦ たちは、本当に頭が良くて、しゃべる⾔葉も本当に私も敵わないような、素晴らしいプレゼン だったんですね。 でもその後に、質問がありました。で、えー、⾃分が正しい、その⼀⼈の⼥の⼦が「⾃分が 正しいと思っていることを、⼀⽣懸命に⾃分はやっているのにもかかわらず、⼈から邪魔をさ れたり、上⼿くいかないことがあって、とても⾟い。」と⾔って、いきなりポロポロ涙を流し たんですね。だから、その、頭は良くて、とてもあの、⾔葉も上⼿くて、インターネットやパ ワーポイントやそういうものをこう、すごく駆使して、もうすごいなぁ(※ビックリのしぐさ) と⼈を圧倒することは出来るんだけれども、いざそれを、実践に移して⾏こうとした時に、上 ⼿く出来ないと、どうしていいか分からなくなってしまっている。 その、もちろんまだ⾼校⽣なので、これからだと思うし、あの、私も⾼校⽣の時にそんな⽴ 派だったわけでは全然ないので、あの、「カワイイわね!」っていうふうに思ったんですけれ ども、その、たぶん頭と⼼のバランスが、こう、取れていない。すごく頭でっかちになってし まっていて…。「出来るはずなのに、いざやろうと思うと、あの、みんなが協⼒してくれない …」みたいな。あの、⼀番、でも⼤事なのは、その、知識も⼤事だけれども、いかに何かやる 時にみんなに協⼒をしてもらって⾏くか、やって⾏くかっていうとこの⽅がたぶん⼤事だと思 うので、その両⾯を教育の中で、えー、⾝に付けてかなくてはいけないんだろうなぁというふ うに、その⼦たちを⾒ていて、思いました。 あの…、いろんな教育が、あると思うんですけれども、あの、その⼦たちはですね、あの、 もちろんその、あの、いろいろアクションに移していて素晴らしい⼦たちも沢⼭いるんですね。 でも、あの、そこの場ではいいんですけれども、実際、⾃分の学校に戻って⾏くと、『意識⾼ い系』というふうに⾔われて、⾃分がそういうところで学んだ、こう、「社会の問題を解決し て⾏くにはどうしたらいいんだろう?」ということを、学校の中では話は出来ない。で、特に ⼥の⼦のその、そういう年代の⼦たちっていうのは、もうみんなおんなじで仲良くしていたい、 群れていたい、仲間外れになりたくないという思いがすごく強いので、えー、⾃分が本当に関 ⼼があること、社会を良くしたい、世の中のために働きたい、えー、ここがおかしいんじゃな いか?(※拳を握って少し突き出すしぐさ)と思っているようなことを学校で⾔いたいんだけ れども、そんなことをみんなに⾔ったらば、仲間外れにされちゃう、変なやつだと思われちゃ う…、だったら⾔わないでじっとしておいた⽅がいいじゃないか、と。 でも、私は「それは違うじゃないの?」っていうふうに⾔いました。あの、そこからやっぱ り変えて⾏かなきゃいけない。勇気を持って、誰かが学校の中で、社会の問題なんかを考えて ⾏く。そして、その周りが⼀⼈でも⼆⼈でも変わっていって、で、そこからみんなでそういう 共通の話を、あ、(※アリガトウ…と⼩声で園職員に会釈)えー、することが出来るように、 えー、なんとか学校を少しずつ変えて、みんなの⼒で変えて⾏きましょうよ、という話をして いたんですけれども。えー、『意識⾼い系』などという、⾔葉はあるっていうことも私は知らなかったんですけれ ども、あの、⼦供たちは⼦供たちで、⾼校⽣たちは⾼校⽣で、いろいろ⼤変なんだなぁってい うふうに、みんなの話を聞いていて思いました。あの、外国だとたぶん、⼈と違う⽅がむしろ カッコ良かったりとか、個性的な⽅が評価されたりすることがあると思うんですけれども、ま ぁ⽇本の場合は、あの、『⼈と⼀緒が良い』。⾼校⽣や⼦供たちだけではなくて、たぶん社会 の中でも、えー、浮かない⽅がいい、⼈と⼀緒の考え⽅を持っていた⽅がいい、何か発⾔した くても「こんなこを⾔ったら、ちょっと笑われちゃうんじゃないかな、⼈と違うんじゃないか なと思うと黙ってしまう。で、それでもちろん、社会が上⼿くまとまっている部分っていうの もあるとは思うし、それが⽇本の強みでもあったのかもしれないんですけれども、でも私は、 これからは、もう少し、⽇本⼈であっても⾃分の考えを堂々と述べて良いんじゃないかなと思 っています。 ■以前は、安倍家の嫁・政治家の妻として型にはまろうと思っていたが、今は違う 私⾃⾝も、安倍家の嫁として、政治家の妻として、えー、まぁ今は総理の妻として、総理夫 ⼈という⽴場として、なるべく、こう、型にはまろう、はまろう、というふうに思って来まし た。まぁ、今はあんまり思ってないんですけど、その前の、6 年、7 年の時までは、思って来 ました(※微笑み)。で、⼈から⾒ると、「いや、全然そんなことなかった。」と⾔われるん ですけれども、でも私は、なるべく、その、政治家の妻らしく、主⼈の脚を引っ張らないよう に、えー、そんなことを思ってたんですけれども。えー、でも、あの、⾃分の⼼の中から湧き 出る思いみたいなものっていうのは、私は神様からいただいているものだと思っているので、 それは、正しいと思ったことはあの、多少⼈から⾒て、えー、(おかしい!)と思って、思わ れてもですね、例えばこの防潮堤問題なんかもそうなんですけれども、堂々と声をあげていこ う、というふうに今は思っています。 そうすると、こう、⼀歩アクションを起こすと、えー何となくこう、⼿伝ってくれる⼈が出 てきたり、正しい道を進んでいる限りはきっと、どっかで神様が⾒ていて、えー、助けを、助 けの⼿を差し伸べて下さるんだろうな、というふうに信じて今、私は私なりに進んでいるとこ ろなので、まぁ皆さんにもご理解をいただければなぁというふうに思います。 ■主⼈が総理を辞めて⾃分も悔しくて落ち込んだが、それはそれでありがたい経験だった 私⾃⾝も(※壁時計に⽬をやる)、主⼈が⼀回総理を辞めた後に、⾮常に⾟いひとときとい うか(笑)、えー、数ヶ⽉間ぐらいはありました。えー、精神的に⾮常に強いタイプでは全く なくてですね、結構、あの、すぐ、あの、えー、おちこ、落ち込むというか、メソメソしたり とかするんですね。で、まぁ前回の時も、それでも、あの、いろいろインターネットで、えー、 ⾃分のことを検索しては(なんでこんなことを書かれなきゃいけないの!)とかって、思って いたんですけれども。主⼈はもう、「そんなものは⾒るな!」とか、「⾒るから落ち込むん だ!」とか⾔って怒られていたんですが、でもなんか、⾃分がどういうふうに⾒られているの か? で、その、そういうふうに⾒られているんだったら、そうじゃないように変えて⾏かなきゃ いけない、っていうふうに思って、何となく⾃分の悪いところを⼀⽣懸命探したりとかしていたんですけれども、まぁ⼀回主⼈が総理を辞めて、えー、本当にあの、(⼀⽣懸命やって来た 主⼈がどうしてこんなに⼈から批判されなきゃいけないんだ)と思うと、あの、とても悔しい 思いがしてですね、まぁ、笑ってる⼈を⾒るだけで本当に涙が出るぐらい、落ち込んだ時期が ありました。 えー、でもまぁ、それがあって、今、いろいろ幅広く、⼈の気持ちも少し分かるようになっ たり、えー、⾃分は⾃分でいいんだというふうに思えるように変わったのかなぁっていうふう に思っていて。まぁ、その経験はあの、それはそれで有難かったなというふうに思っています。 ■⽇本の神様は「神道」。籠池園⻑も神様から天命をいただいている⽅ で、なぜかですね、私はキリスト教の学校でずっと育ったんですけれども、なぜかその頃か ら「⽇本の神様は神道だ。」って思うようになって、えー、伊勢神宮とか、出雲⼤社とか、ま ぁいろんな神社巡りをし始めました。えー、別にその、⾮常にあの、何かそれでえー、スピリ チュアル的にどうこうというわけではないんですけれども、本当にただ、あの、神様にですね、 「私は何の能⼒もありませんが、えーどうか、神様に、えー、とって良いように私を使って下 さい。」ということをいつも祈り続けてたんですね。で、それがたぶん、今、あの、(神は私 をきっとこういうふうに使いたかったんだろうな…)っていうような、あの、感じであのー、 ⾃分の意志とは違うところでいろんなことをさせていただいているのかな、というふうに思っ ています。 えー、籠池園⻑もご病気をされて、あの、⼤変でらしたようですけれども、それでもその、 本当に⼤きな天命をえー、やはりあの、神からえー、いただいている⽅なんだろうなと私も、 あの、いつも熱い思いを伺いながら感じています。あの、⼈は、それぞれ⼀⼈⼀⼈必ず何かし ら使命を持って⽣まれて来ていて、それをやはり、⾒つけて、全うして⾏くのが⼈⽣なんだと 思っています。 ■⼦供はお⺟さんを選んで⽣まれてきている あの、『神様との約束』という映画があるんですけれども、それはあの、⼦供の教育をして いる⼈と、あと産婦⼈科医が中⼼になったドキュメンタリーみたいな映画なんですけれども、 ⼦供たちがこう話しているのを聞いていると、「⽣まれる前、僕たちは私たちは、宙に浮かん でいたんだ。」と、で、⼦供たちはそれをまぁ、本当かどうかは分からないですけど、多くの ⼦供たちが同じような話しをしているんですね。で、「浮かんでいて、そこに⼤っきいスクリ ーンがあって、で、そこにママの顔が映ったから、僕はこの⼈がいい!って⾔って、選んでマ マのお腹に⼊ったんだ。」ということを沢⼭の⽅が、沢⼭の⼦供たちが話しているんですね。 そこにね、パパの⾔葉が出て来ないので、パパはどっから選ばれてるのかちょっと良く分から ないんですけど!(※もの凄い楽しそうに笑う)。みんなママを選んで(※⼈差し指を掲げ振 りながら)⽣まれて来ているんですね。 で、その、どんな⼦供であっても、あの、普通⼦供は親は選べないんだっていうふうに⾔い ますけれども、でもきっと私は、どっかでやはり⼦供たちはお⺟さんを選んで来ているんだろ うなぁっていうふうに思って、えー、親⼦関係が上⼿く⾏っていない⼦供たちには、まぁ親御さんには、その映画を⾒てもらって、えー、⾃分はこの⼦に選んで来てもらったんだというふ うに思ってもらいたいなぁというふうに思っています。 ■この国を誇りに思える⼦供たちを育てるために、瑞穂の国記念⼩学院を応援したい え〜、そろそろ時間が来ましたけれども、この瑞穂の国、記念、えー、⼩学校、来年、再来 年、開校されるということで、本当にこの、あの、「国に⽣まれて良かった」というふうに思 えるようなですね、あの、国にしていくために、主⼈も政治家として総理⼤⾂としてこれから も頑張って⾏くと思いますし、えーまた、この学校においてもやはり、えー、国に、この⽇本 の国を誇りに思えるような、えー「いい国に⽣まれて良かったな」と、この国の良さをどんど ん、この、えー、ずうっと繋げて⾏かなくてはいけないというふうに思えるような⼦供たち、 そしてそれを、えーまた、この国だけのことにとどまらずに、世界中の⼈たちが平和になるた めに、えー、⾃分たちの⼒を使いたいと思えるような⼦供たちに育って⾏ってもらうために、 私も、あの、応援をして⾏きたいと思いますので、どうか籠池園⻑ご夫妻にはお元気でですね (笑)、頑張っていただきたいなぁと思います(※満⾯の笑み)。今⽇はお招きを頂きまして、 有難うございました。 (※深く⼀礼後、コップの⽔を飲み、再び⼀礼。) (※保護者⼀同、拍⼿。)