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坂本弁護士事件の怪
坂本弁護士一家殺害事件の実行犯の供述によると、犯行状況は凄惨なものだった。
実行犯はオウム真理教の中川智正、岡崎一明、村井秀夫、新實智光、早川紀代秀、
端本悟の6人である。1989年11月4日午前3時頃、横浜市磯子区にあるアパ-
ト2階の自宅で就寝中の坂本弁護士一家3人を実行犯が襲撃した。
まず、端本が、いきなり眠っている坂本弁護士(当時33)の身体の上に馬乗りと
なり、同弁護士が目をさますや、声を上げさせないようにするため同弁護士の顎を手
拳で数回殴打し、次いで、岡崎が、上半身を起こそうとした坂本弁護士の背後に回り
込み、右手を同弁護士の首に回して同弁護士の着衣であるパジャマの左奥襟辺りをつ
かんだ上、それを右方向に引っ張り、パジャマの布地を使って同弁護士の首を絞めた。
坂本弁護士は、背後から首を絞め付けている岡崎を振り払おうとして必死に抵抗し
たが、岡崎を振り払うことができないまま、間もなく、その場で窒息死した。
一方、新實は、寝室に入ると、すぐに、同室で寝ていた都子の身体の上に馬乗りと
なり、騒がれないように同女の口を両手で塞ぐなどして同女の身体を押さえつけた。
都子は、苦痛を押して「子供だけはお願い」などと龍彦の助命を哀願した。
この間、傍らで寝ていた龍彦が、目を覚まして泣き声を上げたことから、同児の側
にいた被告人(中川)は、龍彦に声を上げさせないようにするとともに、同児を窒息
死させるため、その場にあったタオルケット様のもので同児の鼻口を押さえ、それを
数分間続けたところ同児がぐったりした。
被告人(中川)は、都子の背後から、右手を同女の首に回した上、同女の首を絞め
続け、間もなく、その場で同女を窒息死させた。
また、都子から離れた新實は、被告人(中川)の前記暴行によってぐったりし、け
いれん状態を引き起こしている龍彦を殺害するため、同児の鼻口を手で押さえ続け、
間もなく、その場で同児を窒息死させた。(『読売新聞』1996年3月12日夕刊)
これが本当だったら余りにもむごい。裁判抜きで実行犯をリンチにして殺してしま
え、というマスコミの論調にも頷けるものがある。しかしその前にちょっと冷静にな
って良く考えてみて欲しい。人を3人も殺すことは大変な作業である。しかも犠牲者
はおとなしく殺される訳ではない。自分の身を守ろうと、愛する家族の命を助けよう
と、必死の抵抗をしたはずである。
検察の冒頭陳述からも、その様子を伺い知ることができる。しかも事件の起きたの
は、夜中の午前3時である。閑静な住宅街はひっそりと静まり返り、坂本弁護士一家
が暮らしていたアパ-トでも住民は眠り込み、しんとして物音一つしなかったに違い
ない。そこに突然、こんなどたばた騒ぎである。事件に気づいた人がいないという方
がおかしい。
ところが、である。アパ-ト2階にある坂本弁護士の自宅の階下に住んでいた家族
は、4日の午前3時頃には坂本弁護士の部屋からは物音ひとつしなかったと証言して
いるのである。物音ひとつしなかった、これはすなわち事件が起きたのは、11月4
日の午前3時ではなかった、ということを示しているのではないだろうか。
事件が起きたのが、『11月4日午前3時』ではなかったことを補強する材料とし
て、事件現場の流しには、夕食に使ったと思われる食器が洗われずに置いてあった、
という事実が挙げられる。
清潔好きで几帳面だった都子さんは夕食後すぐに食器を洗う習慣があった。つまり、
夕食に使った食器を洗わずに寝てしまうということはないということだ。それが洗わ
れずに残されていたということはすなわち、犯行が行われたのは一家が寝る前、つま
り4日未明ではなく、3日夜だったということを示している。
また、事件当日には坂本弁護士夫妻が着ていた服もなくなっている。ところが、2
人が使っていた寝巻は部屋にあった。つまり失踪時、坂本弁護士夫妻は普段着だった
ということだ。これまた、『4日午前3時』説が間違っていることの傍証となる。
次に家計簿について。都子さんは毎日、家計簿をつけていた。結婚して以来、書い
てない日はなかったという。その家計簿をつけるのは、旅行でもしない限り必ずその
当日のうちである。それが11月3日から書いていない。もし犯行が『4日午前3時』
に行われていたなら、3日の家計簿はつけてあったはずである。
洗われずに置いてあった食器、部屋に残された寝巻、つけられずに残されていた家
計簿、以上の点からも、『4日午前3時』犯行説は明らかに誤りであることが分かる。
実は犯行時間についてだけではなく、坂本弁護士一家殺害事件にはまだまだ多くの謎
が残されているのである。
その1。実行犯はどうやって坂本弁護士宅のドアの鍵を開けたのか。「鍵はすでに
開いていた」「都子さんが鍵をかけ忘れた」と言われているが、本当なのか。
坂本弁護士は、青山被告や上祐氏が事務所に訪ねてくるようになって以来、自宅の
鍵だはかけ忘れのないよう都子さんに念押ししていたとされている。事件当日だけ都
合よく鍵をかけ忘れたというのは、出来すぎた話ではないのか。
その2。事件現場に、実行犯が落としていった「プルシャ」と呼ばれるオウム真理
教のバッジがあった。犯行現場に自分たちの身元が分かるような証拠を残していく犯
人がいるとすれば、大馬鹿者である。オウム真理教の実行犯がそうだったのかも知れ
ないが、それにしては、真夜中、誰にも気付かれずに坂本弁護士一家を殺害して、そ
の遺体を運び出すというマジシャンまがいの行為をやってのけた見事なお手並みは、
どう説明したらいいのだろうか。
さらに不思議なのは、「プルシャ」が発見されたのが、鑑識の調査が済んだ11月
8日の午前中だということである。鑑識課員が見逃したのを坂本弁護士の母親が発見
したのだ。これまた、まずあり得ない話である。警察の捜査というものは、そんなに
いい加減なものなのか。本当はオウム真理教の犯行に見せかけるために、後から誰か
がこっそりと「プルシャ」を部屋に落としてきたのではないのか。犯人は警察内部に
潜入している秘密結社のエ-ジェントかもしれない。
ところで『11月3日犯行説』を裏付けるものとして、坂本弁護士宅の階下の部屋
に住んでいた家族が3日の午後8時過ぎ、坂本弁護士と、坂本弁護士を訪問したらし
き人物とが会話している声を聞いたと証言していることがあげられる。
前回のインタビュ-の時、「坂本さんの自宅を訪れたのは、坂本さんに信用させ、
ドアを開けさせることができた女性の疑いがある」とおっしゃって いました。その女
性が、11月3日午後8時過ぎ、坂本さんにドアを開けさせ部屋に入った。だから、
4日午前3時頃に岡崎容疑者や早川被告が行った時はドアは開いていた、ということ
ですか?「そう考えるほうが、『都子さんがドアの鍵をかけ忘れた』と考えるよりは、
はるかに自然でしょうね」
「3日午後8時過ぎ」の訪問者を「坂本さんを信用させた相手」と考える、その
根拠はありますか?「湯呑み茶碗です。坂本さんは、ある人から贈られた来客用の湯
飲みセットを使っていました。鑑識が調べた結果、全部で5つあるはずのその湯呑み
茶碗セットのうち3つがなくなっています」
ということは、3日の夜に3人の来客があり、坂本家では彼らにその湯飲みでお
茶を出し、それがなくなっているということですか?「そういう推察も成り立ち得る
ということです」(「週刊プレイボ-イ」95年10月3日号の「現役.公安幹部の告
白<第2弾>」から引用)
それでは坂本弁護士一家は、どのようにして殺害されたのであろうか。一つの仮説
としては、11月3日の夜に自宅アパ-トで近所の住人に気付かれないように密かに
殺害されて、4日の深夜にこっそりと遺体が運び出された、というものがある。
もう一つの仮説は、11月3日夜、坂本弁護士一家は自宅から外におびき出されて
拉致された、というものである。それを裏付けるような情報がある。「坂本弁護士一
家救出のための懸賞金広告実行委員会」の木村晋介委員長(弁護士)が、「タクシ-
運転手から寄せられた情報」として公表した情報だ。
それによると、坂本弁護士が姿を消した当夜、坂本弁護士一家に似た客3人がタク
シ-に乗車し、横浜市瀬谷区三ツ境付近で降り、そこに待っていた二人の男と共にラ
イトバンに乗り継いで行ったという。この情報は「注意を要する情報」として、わざ
わざ記者会見を開いて公表されたものなので、信憑性は極めて高い。
今となっては真実は闇の中である。だがどう考えてもオウム真理教=犯人説には無
理があるように思える。それでは真犯人はいったい誰だったのであろうか。
真夜中に何故か都合よく開いていたドアの鍵、そして3人の来客の謎。オカルトに
精通している者にはすぐ分かる。フリーメーソン神話において、ソロモンの神殿の建
築者である親方メ-ソンのヒラム.アビフを殺害した、3人の卑しむべき職人メ-ソン、
ユベラ.ユベロ.ユベラムが登場したのだ。
フリーメーソンとは自由(フリ-)な石工(メ-ソン)という意味である。フリー
メーソン側がいくら否定しようと、フリーメーソンはれっきとした秘密結社である。
秘密の儀式を有している、秘密の教えを有しているから秘密結社であるというのでは
ない。仏教の教義の中にも、ステ-ジの高い修行者にしか明かされないタントラ.ヴァ
ジラヤ-ナという秘密の教えが存在している。何故秘密にされているのかというと、
精神性の低い修行者にとっては危険な教えであるし、世間にその秘密が漏れると誤解
を招く恐れがあるからである。
だからといって、我々は仏教教団を秘密結社であるとは言わないだろう。仏教修行
の目的は、解脱や悟りにあることは自明のことだからだ。筆者がここで秘密結社とい
うのは、その達成されるべき目標およびそのための手段方法を部外者に知らせない組
織のことである。すなわち陰謀を働く結社であるということだ。
従って共産党のような革命組織は例えそれが地下組織であったとしても、秘密結社
とは呼ばない。何故ならマルクスも言うように、「共産主義者は、自分の見解や意図
を秘密にすることを軽蔑する」(共産党宣言)からである。しかしもし革命の本当の
目的が共産主義社会の建設ではなくユダヤのキリスト教破壊と国家経済の独占にある
としたら、もし共産党を背後から操る陰謀組織が存在しているとするなら、その組織
は秘密結社であると言っていい。それでは、秘密結社フリーメーソンの真の目標とは
何なのだろうか。
フリーメーソンの目標は世界支配、そのための手段はオカルトである。このオカル
トには儀式殺人も含まれている。しかしフリーメーソン結社員は、フリーメーソンは
ロ-タリ-クラブのような単なる社交団体であるとぬけぬけと言う。結社の目的は外
部の人間には秘密にされている。だからフリーメーソンは秘密結社であると言えるの
である。
フリーメーソンの起源に関しては様々な説がある。しかしここでは、アメリカのオ
カルト研究家、ジェイムズ.シェルビ-.ダウナ-ドの説を御紹介しよう。ダウナ-ド
によると、中世の石工組合(スト-ン.メ-ソン)はその起源をロ-マ人設立の大学(ロ
-マ.カレッジ)に辿ることができるという。
フリーメーソンの起源は高位神官と同じように神秘に満ちている。彼らは神聖な秩
序のもとに神聖な建物をつくっていたので、物理空間における測量、数、面積を特別
に重要視した。それはロ-マ神話の農耕の神、クロノス-サタンがこの建築の世界を
支配しているとされたからだ。フリーメーソンは神を「宇宙の偉大な建築者」と呼ん
でいる。
ゴシック大聖堂の発展の歴史を考察すれば、フリーメーソンが堕落して行った過程
を伺い知ることができる。もちろん当初は、メ-ソンも信心深く宗教的な男の集団で
あった。その仕事は、真実と美の調和を石工において実現することにあった。しかし
これは長続きせず、腐敗はたちどころに始まったのだ。
大聖堂の聖母マリアの彫像を調べてみれば、このことがよく分かる。最初は聖母マ
リアは、全ての女性にとっての理想像である清純な処女として描かれていた。しかし
その後すぐに彼女の姿は、偉大だが自然な美を持つ、実在の母親の肖像へと変化して
行った。信心深い者は新しく出現した彼女の人間性の面を賛美するかも知れないが、
そうすることで同時に彼らは、別世界に存在するような彼女の神聖さというものを犠
牲にしてしまったのである。
次ぎなる段階は、彼女が「大地母神」へと変えられた時に起こった。メ-ソン好み
の豊穣の女神へと変化したのだ。最後の段階は13世紀と14世紀に、彼女の姿が余
りにも人間臭く成り過ぎた時に起きた。アミアン大聖堂の南入口のマリアの姿は、実
際のところ浮気女や今にも浮気をしそうな女へと堕落してしまっている。これは正に
ゴシック建築におけるメ-ソンの影響力を表しているのである。
石工組合はこれらの秘密の唯一の保持者なのだ。この聖母マリアの変身の過程は、
いつの日か現実の女性へと適用されるだろう。いやもう現実にそうなっている。馬鹿
な浮気女の大量発生、筆者が改め て指摘するまでもない。
スト-ン.メ-ソンは神秘的な労働組合として、当時の労働者に対してある種の支配
権を持っていた。そしてフリーメーソン友愛組合と親密な関係を築いていた。余りに
も親密であったので両者を区別することは事実上難しく、また両者は一体となって発
展した。両者の結合は、ヨ-ロッパにおいて騎士道が廃れた時に起きた。現代のメ-
ソンは、彼らの祖先は騎士道精神を体現していたと言うが、これは嘘である。スト-
ン.メ-ソンのまったき崩壊は14世紀に始まっている。
「騎士道の衰退は14世紀になって起こった。都市のマネ-.パワ-が古き農耕社会
の秩序と宮廷の伝統を破壊し、ドンキホ-テ(滑稽なもの-筆者注)へと堕落させて
しまったのだ」(-ゴシック彫刻)
ドイツの友愛組合のメンバ-は、「シュタインメッツェン」と名乗った。グランド.
ロッジはシュトラスブルク、ウィ-ン、ケルン、チュ-リッヒに設立された。145
9年にグランド.ロッジが設立されると同時に、シュトラスブルクの大聖堂の親方がド
イツのメ-ソンのグランド.マスタ-になることが決められた。
シュタインメッツェン(スト-ン.メ-ソン)とフリーメーソンの一般的な違いは、
少なくとも18世紀の初めまではシュタインメッツェンは「実践的」メ-ソンと考え
られていたのに対し、フリーメーソンは「思弁的」と考えられた点にある。「実践的」
メ-ソンは実際に実在の石を扱うのに対し、「思弁的」メ-ソンは組織的な目的のた
めに象徴的儀式的な対象として石を用いるのである。最終的には、シュタインメッツ
ェンは完全にフリー(思弁的)メ-ソンへと溶け込んでしまった。
石垣が単なる象徴に過ぎなくなった時、それは秘密と沈黙を表すものへと変化した
のである。
ダウナ-ドが明察したように、フリーメーソンの世界支配の陰謀は14世紀に始ま
る。この時キリスト教精神が破壊されて、マネ-.パワ-がそれに取って代わるのだ。
この14世紀の初めには、世界史的に重要な事件が起こっている。テンプル騎士団
の大弾圧である。1314年3月18日夜、テンプル騎士団の最後の総長であったジ
ャック.ド.モレ-は火あぶりにされて処刑された。筆者はテンプル騎士団が世界的陰
謀の総元締めであったと考えている。ではテンプル騎士団とはいったい何者なのであ
ろうか。
1118年-第1次十字軍がイスラムを破り、アンチオキアとエルサレムを占領し
て、ゴドフロア.ド.ブイヨンをエルサレムの王に据えてから19年後-、ユグ.ド.パ
ヤンとゴドフロア.ド.サントメが率いる9人のフランス人騎士の一隊が、聖墓への巡
礼者を守るため修道会を結成した。
時のエルサレム国王は、この修道会に対しソロモン神殿の広場に面した用地を与え
たので、以来テンプル騎士団の名で呼ばれる。
清貧を旨としたテンプル騎士団も莫大な寄付を集めた結果、12世紀末には裕福で
強力な団体になっていた。時のフランス国王、フィリップ端麗王はテンプル騎士団の
財産に目が眩み、それを横取りしようと陰謀を企んだ。
1307年10月13日、フィリップ端麗王は異端の罪でフランス国内のテンプル
騎士団全員を逮捕させた。ジャック.ド.モレ-をはじめとする多数の騎士は、キリス
トの否定や十字架に唾を吐きかけたこと、偶像つまり髭の生えた頭を見せられこれを
拝むように命じられたことを告白した。
しかしこれらの告白は拷問により強要されたものだった。フランスでは告白を撤回
した54人の騎士が1310年5月12日、異教徒に戻ったとして火あぶりにされた。
4年後の1314年3月18日、ジャック.ド.モレ-も同じ運命を迎えた。
テンプル騎士団はイスラムの暗殺教団「アサシン」と同盟を結んでいたと言われて
いる。アサシン(暗殺)という言葉は、この教団に由来する。組織の上級者は若者を
ハシシで酔わせて様々な快楽を味わせる。自分は天国にいたと錯覚した新団員は、組
織の命令を実行すれば、永遠の喜びで報いられると信じ込む。こうして彼は殺人に命
をかけるようになるのだ。アサシンは基本教義としてはイスラムへの忠節を公言して
いたが、少数の者にしか明かされない秘密の教義を持っていた。その究極の目的は宗
教の外套をまとった少数者による支配であり、その手段は反対する者の皆殺しであっ
た。アサシンの狂信を通じて機能する組織的殺人システムが西洋に輸入されて、ヨ-
ロッパの秘密結社のモデルとなったのだ。アサシンは「東方のフリーメーソン」とも
呼ばれている。
以上はテンプル騎士団弾圧に関する「通説」である。だが、陰謀家どもの主張する
テンプル騎士団無罪説、フィリップ悪玉論は真実ではない。彼らは、騎士たちの告白
は拷問の結果なされたものだから真実とは異なる、という。しかし全ての告白が拷問
の結果なされたわけではない。パリの教皇会議の審問では、多数の騎士が教皇を前に
その陳述を確認したのだが、ここではいかなる拷問も行われなかった。
また、テンプル騎士団の財産はフィリップ端麗王に接収されたわけではなく、王自
らの手でエルサレムの聖ヨハネ騎士団に与えられているという事実がある。
テンプル騎士団異端説にはやはり根拠があったのである。彼らはバフォメと呼ばれ
る髭面の両性具有の悪魔を崇拝し、セックス.マジックや首切り儀式に熱中していた。
胴体から切り話された喋る生首、これが彼らの本来の崇拝の対象である。おとぎ話で
はない。猿の首のすげ替え実験はすでに成功しているのだ。そのうち人間の首のすげ
替えも行われるようになるだろう。テンプル騎士団とその後継者が目指している伝説
的な目標は、髭面の男の頭を肉感的な女性の胴体に移植することである。その時こそ、
テンプル騎士団が崇拝した両性具有の悪魔.バフォメが地上を徘徊することになるのだ。
バフォメは単なる空想の産物などではない。この世に現実に存在している。加え煙
草で下品な言葉を吐き、男のような恰好で街中を闊歩している、それでいて胸とけつ
だけは張り出している。こんな生き物を昔はおとこ女と呼んだものだ。筆者はバフォ
メと呼んでいる。近年、男と女の性差がなくなりつつある。人類が中性化しつつある
のだ。男と女は対照的であるからこそ互いに引き合うのである。男女の対照性が消滅
してしまえば、陽と陰の両極性が生み出すダイナミズム、生命力といったものも自然
に消滅してしまう。自然の生命システムが破壊され、残されるものはクロ-ン人間の
ようなロボット人間だけになってしまう。昔ながらの豊かな自然風景は消滅し、無機
的な死の街だけが後に残され る。その死の街を徘徊するロボット人間の群れ、これが
陰謀家どもの究極の目標なのだ。
我々の生命力を破壊するエイリアン集団、テンプル騎士団こそ、西欧キリスト教文
明にとっての疫病神であったのだ。彼らは最初に登場した国際銀行家のひな型であり、
教会が高利貸しに対する態度を転換させるのに大いに貢献した。どのような中世の組
織も、テンプル騎士団ほどに資本主義の台頭に力を貸したことはなかった。
彼らは金融業務に関して優れた手腕を発揮した。これは中東のアレキサンドリアの
ユダヤ人から学んだ可能性が高い。かくしてテンプル騎士団はユダヤ人を除いては唯
一の資本家集団となったのだ。
筆者は、テンプル騎士団は魔術結社と同様に二重の組織だったのではないかと思っ
ている。つまり、一部の者は騎士団の秘密の教義を授けられたが、大多数は始めから
終わりまで何も知らされなかった。裏切る恐れがないと高位者が判断した者にだけ、
口づてで秘密が明かされたのだ。テンプル騎士団には顕教と密教があり、表と裏の両
面を持っていたのだ。テンプル騎士団の総長は表の長であり、その代理セネシャルは
裏の長ではないかといわれている。テンプル騎士団の印璽も一匹の馬に二名の騎士が
乗るという奇妙な図案である。これはテンプル騎士団が二重の組織であることを象徴
していると考えられる。騎士団は東方正教の信仰を持つと外部には完璧に見せかけた。
分団長だけが行き先を知っており、残りの団員は疑問も持たずついていくだけだった。
テンプル騎士団はれっきとした秘密結社であったのだ。
そしてこのテンプル騎士団とフリーメーソンが合体しているのだ。フリーメーソン
の「親方」の参入儀礼がテンプル騎士団システムへと変えられた時、ジャック.ド.モ
レ-はヒラム.アビフに取って代わり、3人の暗殺者はテンプル騎士団の内部告発者、
フランスのベジエのスキャン.ド.フレキシアン、フィレンツェのノッフォディそして
正体不明の第3者に置き換えられた。しかしこの第3の男に関しては記録が残ってい
ないので、でっち上げの可能性が高い。フリーメーソン伝説の3人の暗殺者と整合性
を持たせるためである。3人の暗殺者とは、フリーメーソン伝説においてソロモンの
神殿の建築者ヒラム.アビフを殺害した3人の卑しむべき職人、ユベラ.ユベロ.ユベラ
ムのことである。
テンプル騎士団とフリーメーソンの繋がりは、フリーメーソン側も公認の事実であ
る。フランスでのテンプル騎士団裁判中、ピエ-ル.ドモンと7人の騎士はメ-ソン職
人の手引きでスコットランドに逃亡し、マル島に上陸したといわれる。1307年の
聖ヨハネの日(6月24日)に、彼らは最初の憲章を発表した。その後、スコットラ
ンド王ロバ-ト.ブル-スに保護された彼らは、7年後の1314年(ジャック.ド.モ
レ-が火あぶりにされた年-筆者注)の夏至.聖ヨハネの日(6月24日)に、スコッ
トランド軍に加わって、騎士団を弾圧したイングランド王エドワ-ド2世とバノック
バ-ンで戦った。
エドワ-ドは強力な騎兵をふくむ、2万にのぼる大軍をみずからひきいてスコット
ランドに侵入した。あと一日でスタ-リング城(イングランドの保持するスコットラ
ンド内の最後の重要な砦-筆者注)に達するという6月24日早朝、スタ-リング南
部のバノックバ-ン(フォ-ス川の支流)に駒をとめていたイングランド軍は、兵力
が3分の1に満たないロバ-ト軍に急襲された。沼地にはばまれたイングランド軍は
戦闘がままならず、フォ-ス川で溺死した者は数知れなかった。捕虜になったイング
ランド貴族の数も多く、その身代金支払いのせいで「スコットランドは一日にして裕
福となった」と、巷間うわさされたのである(『イギリス史1』山川出版)
バノックバ-ンでの決定的な勝利の後、1314年6月24日に、ロバ-ト1世(ロ
バ-ト.ブル-ス)は聖アンデレ.あざみ勲位を制定した。この聖アンデレ.あざみ勲位
の象徴は、ヘレダム(ヒアダム)儀式とテンプル騎士団に関係している。
聖アンデレの祝日の11月30日は、スコットランドのグランド.ロッジの聖餐式の
日であり、聖アンデレ.あざみ騎士は、フランスのメトロポリタン.チャ-タ-(スコ
テッシュ.ライト.メ-ソン)の位階である。また、グランド.スコテッシュ.聖アンデ
レ騎士はテンプル位階である。テンプル騎士団とフリーメーソンの密接な繋がりが御
理解頂けたと思う。
ところで、オカルトの歴史にとって何より重要な世界史的転回点はルネサンスであ
ると言われている。そのルネサンスと十字軍とは密接な関係がある。
十字軍の結果、北イタリアの諸都市は東方貿易で栄えた。東方貿易によって、ギリ
シア.ロ-マの古典文化を保持していたイスラムとビザンチンから、古典古代の学問が
流入した。1453年にビザンチン帝国がオスマン=トルコに攻撃されて滅亡すると、
ビザンチンの学者がイタリアに亡命してきたので、古典研究が盛んになった。この古
典の文献研究がルネサンスの口火を切ったのだ。
ルネサンスはフィレンツェで最も早くしかもはなやかに展開した。ルネサンスの巨
人で『神曲』の作者、ダンテはオカルトの秘密結社員で錬金術や占星術に長ずるカバ
ラ主義者であったことがよく知られている。彼が入団していたのは、テンプル騎士団
系のフエデ.サンタである。イタリア.ルネサンスのオカルト哲学者、マルシリオ.フィ
チ-ノ(1433-99)はフィレンツェのコジモ.デ.メディチ一族の中で育った。
フィチ-ノはヘルメス文書のギリシア語写本をラテン語に翻訳した。
ヘルメス文書の著者とされるヘルメス・トリスメギストスは、エジプトの神トトと
ギリシアの神ヘルメスを融合した神話的人物で、その名は「3重に偉大なるヘルメス」
を意味する。紀元前3世紀から後1世紀頃に書かれた同文書は、西洋の神秘思想と魔
術の発展に大きな影響を与えた。
ヘルメス文書の中で特に重要視されるのは「エメラルド碑板」である。これはフェ
ニキア文字の刻み込まれたエメラルド製の碑板で、アブラハム(あるいはアレクサン
ダ-大王)の妻サラによって洞窟の墓場の中から発見された。エメラルド碑板はヘル
メス.トリスメギストスの死体の指でしっかりと握られていたという。
魔術上の目的で特に重要な箇所は、エメラルド碑板のラテン語版の冒頭の一文であ
る。「上におけるごとく、下もしかり、下のごとく上もしかり、唯一なるもの驚異を
達せんがため」これは占星術と錬金術の基礎となる原理で、人類と地上の小宇宙(ミ
クロコスモス)と、神と天上の大宇宙(マクロコ スモス)が照応関係にあることを示
している。
フィチ-ノの極めて優秀な弟子、ジョバンニ.ピコ.デラ.ミランドラ(1463-9
4)はカバラをグノ-シス主義、ヘルメス主義、新プラトン主義と同化させた。ピコ
は、カバラはキリスト教の真理を確定することができる、と信じたのだ。このカバラ
とはユダヤ神秘主義のことである。
1492年にスペインからユダヤ教徒が追放されると、彼らの多くはイタリアに行
き、そこでヘブライ語に対する新しい関心と、ユダヤ教の神秘主義的伝統すなわちカ
バラに対する熱意とを広めた。ピコの教師がスペインのユダヤ教徒であったことは疑
いない。その中で主だったのは、ピコにカバラ的な写本を提供したフラヴィウス.ミト
リダ-テスという謎の人物だった。
さて、ルネサンスとカバラ魔術の関係が分かると、ルネサンスに対する我々の評価
も自ずから変わって来ざるを得ない。
古典文化の復興、人文主義(ヒュ-マニズム)、美術の開花、真理や美の追求、キ
リスト教と封建制度にしばられた中世世界からの脱却。一般的には、ルネサンスは無
条件で称賛されている。ルネサンスを批判すると、野蛮人のように思われてしまうの
が落ちだ。しかし筆者に言わせると、ルネサンスの本質、それはずばり「魔術の復活」
なのである。魔術結社はルネサンスを隠れ蓑にして、悪魔的陰謀を企んだのだ。
ルネサンスの表看板は自由の賛美である。自由の何処が悪い、人はこう反論するに
違いない。言論の自由、表現の自由、報道の自由、好きなことを空想する自由、好き
なことをする自由(法律に触れない限り、あるいは法律に違反しても捕まらない限り
において)、自由はすばらしい。それはその通りだ。権力者に個人の自由を縛られる
のは、誰でも御免被りたいはずだ。ヒトラ-、ムッソリ-ニ、スタ-リン。ロ-マ教
皇、ラスト.エンペラ-、天皇ヒロヒト。専制主義の悪玉には事欠かない。しかし本質
的には彼らの存在は危険な物ではないのだ。その暴力性があまりにもあからさまで、
我々はそれに対して身構えることができるからだ。
しかし、自由、平等、友愛を隠れ蓑にしたファシスト的な階級組織であるフリーメー
ソンに対しては、我々は完全に無防備だ。自由幻想に酔い、影で邪悪な陰謀が進行し
ていることに気付かない。一例をあげると、選挙がある。ファシズム体制下では自由
な投票はありえない。デモクラシ-社会では自由で公正な選挙が保証されている。す
ばらしい。だが実は、大衆は選挙が公正に行われていると錯覚しているに過ぎないの
だ。得票数などは、裏で完璧に操作されていることに気付かない。一抹の疑いを抱く
ことすらしないのだ。
疑いを知らぬ大衆の心理操作、これこそリアル.ポリティックス、真実の政治力学な
のである。その手段は物理的暴力ではなく、詐欺やペテンである。腕力ではなく頭の
勝負なのだ。この時代の悪魔との決戦場は物理的次元にはなく、霊的.精神的な次元に
あるのだ。目に見える暴力と目に見えない暴力、どちらがより危険かお分かり頂けた
と思う。
ルネサンスの魔術師の話を続けよう。黒魔術師の評判の高い、ハインリクス.コルネ
リウス.アグリッパ(1486-1535)は『オカルト哲学について』の著者である。
『オカルト哲学について』はフィチ-ノのヘルメス主義的魔術とピコのカバラ主義的
魔術を結びつけた集大成である。アグリッパはまたヨハネス.ロイヒリン(1455-
1522)のキリスト教カバラにも影響されている。
アグリッパは宇宙を3つの世界、つまり元素世界、天空世界、叡智世界に分けてい
る。彼は「魂の戦車(乗り物)」として、ランタンから漏れる光のように肉体を離れ、
あらゆる時空を理解し、不思議な領域を探索し、天球層と精神的階梯を通って原型あ
るいは神へとのぼりつめるための、星気体の能力についても言及している。アグリッ
パは、肉体からの星気体(アストラル体)の分離、すなわちアストラル.トリップにつ
いて述べているのである。
このアグリッパに影響されたのが、エリザベス朝イングランドの高名な哲学者、数
学者、占星術師、魔術師、スパイであったジョン.ディ-(1527-1608)であ
る。アグリッパのように、ディ-は宇宙は自然界、天空界、超天空界に分かれている
と考える。
アメリカの歴史修正論者であるマイケル.A.ホフマン二世によると、ジョン.ディ-
は近代フリーメーソンの初代グランド.マスタ-であったという。公の歴史では、近代
フリーメーソンは1717年6月24日、聖ヨハネの祝日に、ロンドンにある4つの
ロッジが合同して創立されたことになっている。しかしこれはフリーメーソンが歴史
の暗闇の中から彷彿とその姿を現し、公然とエリ-ト階級をリクル-トし始めた時期
であって、そのずっと以前からフリーメーソンが存在していたことはすでに述べた。
筆者はホフマンの「ジョン.ディ-=近代フリーメーソンの初代グランド.マスタ-
説」を採らない。しかし、ディ-がイギリス史に果たした役割は非常に大きいと考え
ている。そこでジョン.ディ-について簡単に触れておきたい。
ディ-は1527年にロンドンの近くに生まれた。「妖術師」の悪名の高かったデ
ィ-は、1553年、カトリック女王メアリのホロスコ-プを作成して、女王の薄命
を予言した。この予言が当局の忌憚に触れて叛逆罪に問われ、ディ-はハンプトン.コ
-トに投獄されてしまった。ディ-の予言どおり、メアリ女王は短命だった。
1555年、メアリ女王の跡を継いだエリザベス女王は、早くから、ディ-の占っ
たホロスコ-プで王位につくべき運勢を保証されていた。女王になったエリザベスは
ただちにディ-を牢獄から釈放して、王室数学官に任命し、彼女の載冠式の日取りを
占わせた。載冠式はディ-の指定する1559年1月14日めでたく行われた。
ディ-は協力者のエドワ-ド.ケリ-と共に、降霊術で天使を呼び出したと噂されて
いる。魔術師であり優れた数学者でもあったディ-は、『ユ-クリッド』のヘンリ-.
ビリングズリ-の英訳に寄せた序文にこう書いている。「数により、知られうるもの
すべての探究と理解への道が得られる」
ここには科学と官僚性の基礎となる概念が表明されている。これは西洋哲学におけ
る重大なパラダイム.シフトであった。
1583年にジョン.ディ-とエドワ-ド.ケリ-はイギリスを後にして、大陸旅行
に出発した。大陸で過ごした歳月の間、ディ-はある種の伝道活動をし、そのことで
ポ-ランドのクラコウそしてプラハへ行った。プラハにいた時にデ ィ-はラビ.レ-ヴ
と接触した。
ボヘミアのプラハはカバラの一大中心地であり、一人の極めて注目すべき魔術師、
ラビ.レ-ヴが16世紀後半のプラハで有名であった。彼はオカルト主義者の皇帝ルド
ルフ2世と記念すべき会見を行ない、その際皇帝は実際にこのユダヤ人に精神的助言
を求めている。ユダヤの伝説では、レ-ヴは異教徒抹殺の人造人間「ゴ-レム」の創
造者であるとされている。
エリザベス女王の密命を帯びたディ-はこのプラハで、ラビ.レ-ヴと重大な契約を
結んだのだ。その契約とは、イギリスの発展のために国際ユダヤの隠れた支援を取り
付けることであった。そのお蔭で、これまではちっぽけな島国に過ぎなかったイギリ
スが文字通りの大帝国にのし上ることができたのだ。
契約の見返りは、ユダヤ人のイギリスへの再入国であった。1290年にエドワ-
ド1世(バノックバ-ンでスコットランド軍と戦ったエドワ-ド2世の父王)はイギ
リスからユダヤ人をすべて追放していた。ただし隠れユダヤ(キリスト教への改宗者)
は別である。その後ユダヤは、エリザベス1世の治世にこっそりとイギリスに再入国
することができた。ユダヤ人が公然とイギリスに帰還したのは、クロムウェルの時代
になってからであった。
イギリスへの再入国という見返りを約束されて、ユダヤはディ-に協力して大英帝
国の基礎を築いた。そして西洋を支配することになるイギリスの秘密結社の育成をは
かったのである。
密命を無事に終えた後、ディ-は女王の腹心サ-.フランシス.ウオルシンガムに宛
てて秘密報告を出している。彼は数学者らしく、名前の代わりに数字でサインをした。
「007」と。オカルトによる世界の宗教改革、それがディ-の目指したものであっ
た。魔術師ジョン.ディ-こそ、世界史に大きな影響を与えた大英帝国の企画者、女王
陛下の秘密エ-ジェント、「007」であったのだ。
大英帝国がオカルト秘密結社の前進基地であったことが分かった。そこで今度は、
過去から未来に目を転じてみよう。オカルト秘密結社の創始者、ジョン.ディ-はイギ
リスで生まれた。そして新約聖書のヨハネの黙示録に描かれた獣、聖書に予言された
反キリストもイギリスに生まれているのである。
これはあくまで筆者の仮説であるとして聞いて欲しい。その反キリストは「ウィリ
アム」という名前を持っているはずである。ヨハネの黙示録の獣の数字「666」は
いくつかの写本には「616」とある。ウィリアム「William」のWを二つの
Vに分解し、二つのLをIと読む。これを並べ替えると,「I Am VI I V
I」となる。ロ-マ数字「VI I VI」はアラビア数字で「616」のことであ
る。
この「ウィリアム」という名前を持つ超有名人がイギリスにいる。チャ-ルズ皇太
子と故ダイアナ妃の長男、未来の英国王ウィリアム王子である。ウィリアム王子が即
位すると、彼はウィリアム5世となる。「William V」を並べ替えると、「I
AmVI VI VI」となり、ここに獣の数字「666」が出現するのである。
チャ-ルズ皇太子とダイアナ妃の変態セックス(セックス.マジック)の賜物、ウィ
リアム王子は1982年の夏至の日、6月21日に誕生している。夏至とは、一年で
一番日が長くなる日である(北半球では)。古代密議宗教では太陽は神として崇拝さ
れていた。フリーメーソンのシンボルは左目と太陽である。黒魔術師アレイスタ-.ク
ロウリ-が夢見た「ム-ン.チャイルド(月の子供すなわちダイアナの子供)」である
ウィリアム王子は、未来のイギリスに太陽王として君臨することになるのだ。反キリ
ストとしては申し分のない血統であろう。
余談になるが、この太陽王ウィリアムの子分とでも言うべき二人の有名人がいる。
ウィリアムの愛称はビル(Bill)である。二人の高名なビル、誰あろう、ビル.ク
リントン合衆国大統領とビル.ゲイツマイクロソフト社会長のことである。
オカルト秘密結社の歴史をおさらいした所で、話をオウム真理教事件に戻す。坂本
弁護士一家殺害事件で登場した3人の暗殺者は、フリーメーソン神話の3人の卑しむ
べき職人、ユベラ.ユベロ.ユベラムであることが分かった。
坂本弁護士一家殺害の目的はもちろん、オウム真理教に殺人者の汚名を着せること
にある。フリーメーソンはオウム真理教を潰してしまいたい、しかしそれにはそれな
りの口実がいる。現代日本は民主主義社会である。思想、信仰、結社の自由は保証さ
れている。オウム真理教を武力でもって無理やり解体することはできない。戦前、戦
中の治安維持法みたいなものは適用できないのだ。そんなことをすれば、宗教弾圧で
あると反撃される。殉教者を作りあげること程、恐ろしいものはない。宗教とは、迫
害をばねにして教勢を拡大するものだからだ。
しかし宗教団体が卑劣な殺人を犯した、となると話は別だ。殺人カルトなど、弾圧
されようが解体されようが誰も文句は言わない。アメリカや日本で、宗教団体による
殺人、詐欺、児童虐待などの犯罪行為や、集団自殺行為が多発するのもそのためであ
る。つまりこれは、でっち上げられた犯罪であり集団自殺なのだ。国家権力とは恐ろ
しいものであり、その支配の手段が国民に隠蔽される時、とてつもなく危険なものと
なる。そしてこの支配の手段こそ、フリーメーソン秘密結社が部外者から隠してきた
「王の技法(ロイヤル.ア-ト)」であり、リアル.ポリティックス(真実の政治力学)
なのである。
松本サリン事件の謎
まず、図1をご覧頂きたい。これは、松本市地域包括医療協議会が行ったアンケ-
ト調査の結果である。調査対象は、有毒ガス中毒者がでた町内会すべての住民および
その他の計2052名であった。アンケ-トは中毒事故発生から約3週間後の199
4年7月14日から18日の間に行なわれた。
最初に自覚症状を感じた時刻
自覚症状を6月27日の20時から21時の間に感じていた者が5名、21時から
22時の間に感じていた者が8名いた(図1)。自覚症状を感じた時間のピ-クは2
3時から24時にかけてであり、全体の30.6%を占めていた。しかし6月28日
の朝(6-8時)にも小さなピ-クがあった。すなわち、自覚症状を感じた時刻は2
峰性という疫学現象を示した。(『松本市有毒ガス中毒調査報告書』より抜粋)
ところがこの調査結果は、松本サリン事件の検察冒頭陳述と矛盾しているのである。
冒頭陳述にはこうある。
村井らの乗車する噴霧車等は、平成6年6月27日午後10時30分ころ、前 記鶴
見方駐車場に到着し、噴霧車は、同駐車場の東側のフェンスの側に前部を南側に向け
て駐車し、ワゴン車は、同駐車場の西側寄りに前部を同じく南側に向けて駐車した。..
そして、村井は、噴霧車の助手席で遠隔操作でサリン貯留タンクの下についている
エアバブルを開けるとともに、銅製容器の加熱及び有圧換気扇の作動をそれぞれ開始
するため、そのスイッチを入れ、噴霧装置を始動させた。
すると、同午後10時40分ころから噴霧車の噴霧口から気化したサリンが白煙状
になって噴出し、噴霧車の周りに立ち込め、同駐車場の東側にある池の畔に生えてい
る木立の上などを通って周囲に拡散された。..
村井は、同所で約10分間サリンの噴霧を続けた後、サリンの残量がなくなったと
判断し、端本に対し、噴霧車を移動するよう指示し、端本が噴霧車を発進させ、同駐
車場の西側道路を北方に向け逃走を始め、これを見た富田もワゴン車を発進させ、噴
霧車に追従して同駐車場から逃走した。
ここで、検察冒頭陳述の矛盾点を二つ指摘しておく。1.6月27日の20時から
22時の間に自覚症状を感じた人が存在するのに、検察冒
頭陳述ではサリン噴霧は22時40分から行われたとされている。2.6月28
日の朝6時から8時にも、自覚症状の小さなピ-クがある。言わずもがな、
6月28日の朝には実行犯はすでに逃走済みである。
いったい何故、こんな矛盾が生じたのであろうか。これは警察が無理やり、嘘の供
述を松本サリン事件の被告から引き出したからであろう。つまり、オウム真理教=犯
人説には疑問があるということだ。では事件の真実とはどのようなものであったのだ
ろうか。これを推測させる記事が存在する。
なぜ、供述と時刻のズレがあるのか。国際基督教大学の田坂興亜準教授(分析化学)
が、こういう。
「これは、8時台に少量のサリンを噴霧車を使わず、別の方法で発生させ、10時
半過ぎに大量のサリンを噴霧した。つまり、2段階行った。同じ日に、別の者が実行
するのは考えられず、同一実行犯が2回実行した可能性がある」
しかし、別の見方もある。「考えられるのは、攻撃グル-プが2班いたのではない
かということ。最初のグル-プが、午後8時台にサリン以外の、例えばホスゲンなど
を撒いたのではないか。その後、第2段階で噴霧車からサリンによる本攻撃を行った
可能性がある」(捜査関係者)(『週刊現代』1996年5月4日号より)
この記事には、オウム真理教以外の別の真犯人の存在が暗示されている。閑静な住
宅街に毒ガスをばら撒き、罪のない住民を殺害するような凶悪犯が野放しになってい
るとするなら、それは恐ろしいことである。こんな記事を書き恐怖のオ-ラを振りま
くことが、秘密結社の支配する日本のジャ-ナリズムの役割の一つなのである。
地下鉄サリン事件の変
不審物について
まずは図2を御覧頂きたい。これは地下鉄サリン事件で、地下鉄日比谷線霞ケ関駅
で目撃された毒ガス発生装置である(『東京新聞』95年3月21日朝刊)。本文記
事にはこうある。
営団地下鉄日比谷線霞ケ関駅ホ-ムで至近距離から不審物を目撃した複数の乗客に
よると、その“兵器”は透明ビニ-ル袋の中に茶色の箱の形をした紙袋があり、ガラ
スかプラスチック製の瓶の口のようなものが二つあった。この口から透明の液体が流
れ出し、包んでいる袋に染み、列車の床に液体が広がっていたという
あれれ、おかしいぞ。オウム真理教の実行犯が傘で突き刺したというサリン入りの
ナイロン袋とは違うではないか。こう思った人は、催眠術から目を覚ます希望が残さ
れている。これはどう見ても、ナイロン袋と呼べる代物ではない。四角い箱の中に二
つの瓶があって、そこから液体が流れ出している。
不審物の目撃例はこの他にもまだ沢山ある。
東京.営団地下鉄の車内で有毒ガスが流出した地下鉄サリン事件で、車内に残されて
いた不審物は、複数の薬品をそれぞれ溶剤に溶かして試験管のようなガラス製容器に
詰め、容器を割って混合させるとサリンが発生する構造だったことが二十二日までの
警視庁捜査本部の調べで分かった。犯行後逃走する時間を稼ぐため、溶剤でサリンが
揮発する時間を調整しようとしたものとみている。
調べでは、不審物のいくつかは平べったい弁当箱大の包みにおおわれ、内部から割
れたガラス片が多数見つかった。形状から試験管大のガラス容器とみられる。また日
比谷線霞ケ関駅の電車からはガラス瓶を押収した。一方、別の日比谷線の電車では、
異臭がする直前に、乗客がガラスの割れる音を聞いていた。
現場の残留物からサリン製造の際に出来るメチルホスホン酸ジイソプロピルエステ
ルが検出されており、捜査本部は、複数のガラス容器にサリン合成の最終段階の液体
二種類を溶剤に溶かして別々に入れ、倒すなどして容器を割って混ぜ合わせ、サリン
を発生させたと見ている。(『毎日新聞』95年3月23日朝刊)
ガラス瓶が押収されたと聞いて驚かれた人も多いと思う。しかし警察は口が裂けて
もそんなことは公言しない。真実が明らかになっては困るからだ。我々一般庶民には、
本当に大切なことは何もあかされないのである。
このガラス容器が割れる音については、別の証言もある。
北千住駅から日比谷線に乗り、前から三両目にいた。秋葉原駅で自分の後ろの方で
パリンという音がして、シンナ-のようなにおいがした。(『毎日新聞』95年3月
21日朝刊)
八丁堀-築地駅間では、網棚におかれていたビンが落ちて割れ、その瞬間に一人が
倒れたという。(『産経新聞』95年3月20日夕刊)
病院で治療を受けた足立区に住む会社員(32)は、「日比谷線の人形町の手前で
びんの割れる音がした。床が液体でぬれていてシンナ-臭かった。みんなせき込んで
おり、けいれんをおこした人もいた。目の前が真っ暗になった」と話した。(『産経
新聞』95年3月20日夕刊)
不審物にはガラス容器が含まれていたことは間違いないようだ。犯人がガラス容器
を使ったのは、複数のガラス容器を割ることで中の液体を混合させ、現場で毒ガスを
発生させるためである。これを専門用語で「バイナリ-方式」と呼ぶ。
東京の地下鉄サリン事件で、犯行に使われたサリン発生源は、踏みつけるなど衝撃
を与えると容器が割れ、数分後にサリンガスが発生する仕組みになっていたことが二
十四日、警視庁特捜本部の調べでわかった。
これまでの調べでは、包みの中には二つの密閉された容器が入っており、容器を踏
むなど衝撃を与えるとそれぞれの密閉パックに入 った液体の化学物質が混ざって反応
し、サリンが発生する仕組みだった。
専門家によると、化学防護服などを着けない限り、猛毒のサリンをそのままで持ち
歩くことはできない。このため、犯人グル-プは、サリン生成の最終工程に使われる
毒性の低い化学物質を別々に溶剤に溶かして、二つの容器に分け、毒ガステロの目的
地で混合させ、サリンガスを発生させる方法を使ったとみられる。
二種類の化学物質を使用する場所で混合するやり方は「バイナリ-方式」と言われ
るが、これだと、サリンガスの発生までしばらく時間がかかり、犯人が電車から降り
る直前に容器を割れば、自分がサリンの被害を受ける危険性は少ない。(『読売新聞』
95年3月24日夕刊)
一方、佐藤重仁.筑波大臨床医学系助教授(麻酔学)は「自分で容器を開けることは、
自身にも危険だ。サリンの前段階の二種類の液体を別の容器に入れてロケットで打ち
上げ、振動で混じり合わせるという兵器のアイデアを米国が持っていたと聞く。今回
も、電車の振動で液体が混じり合うようにしたこともあり得る」と話している。(『毎
日新聞』95年3月21日朝刊)
これまでの調べで、一部の電車内にあったサリンの発生源の容器は中が二つに分か
れていたことが分かり、警視庁築地署特捜本部は犯人が現場で化学物質を反応させて
サリンを生成したとの疑いを強めている。目撃証言などによると、発生源となった容
器は、中が二つに分かれていたとみられる。(『日本経済新聞』95年3月27日夕
刊)
地下鉄サリン殺傷事件で犯行に使われた不審物は、別々の袋に詰めたサリン一歩手
前の物質とアルコ-ルの一種を車内で反応させてサリンを作る“二液混合方式”だっ
た可能性の強いことが、二十七日までの警視庁築地署捜査本部の調べで分かった。
捜査本部は、犯人が新聞紙に包んだ袋に何らかの方法で穴を開け、二種類の薬物を
流出させて混合、サリン発生前に逃走した疑いがあるとみて目撃情報などから容疑者
の割り出しを急いでいる。
長野県松本市のサリン事件では、容器は見つかっていないが、白煙が上がるなど、
現場でサリンが発生した形跡があり、捜査当局は同じ方式だった可能性が強いと見て
いる。
調べによると、地下鉄事件でサリンが発生した五車両のうち、少なくとも二車両の
不審物は、複数のビニ-ル袋を新聞紙で包んであり、袋から液が漏れ出しているのを
乗客が目撃している。
さらに(1)サリンと一緒に、サリン合成時に副生成物として生じる「メチルホス
ホン酸ジイソプロピル」が検出された(2)二車両で不審物から白煙が出ている(3)
被害が出るまでの時間やサリン発生の規模が各現場で異なっている-などの状況が、
二つの液体を混ぜてサリンを発生させた際の特徴と一致しているとみている。
専門家によると、サリンの生成方法は何通りかあるが、この方式は、生成の最終段
階で、三塩化リンから作る「メチルホスホン酸系化合物」と「イソプロピルアルコ-
ル」を混ぜ合わせ急激な化学反応を起こす。この際「メチルホスホン酸ジイソプロピ
ル」が発生し、白煙が上がるという。
被害が出た五本の電車のうち、北千住発の日比谷線では急激にサリンが発生したこ
とを示す白煙が車内に充満、五本の中で最も被害が大きかった。
中目黒発日比谷線では、男が不審物を置き去ってから約五分後に異常が起きた。こ
れに対し、丸ノ内線の一車両では不審物が見つかってから四十分以上経過してから被
害が出ており、捜査本部は混合スピ-ドの差で被害に違いが出たとみている。(『共
同通信』95年3月27日)
白煙が出たこと、被害発生までの時間や被害の規模が各車両で異なっていることな
どが、「バイナリ-方式」の特徴と合致しているのだ。隠蔽されたのはガラス容器だ
けではない。事件直後の乗客の目撃証言はさらなる多様性を示している。
乗客の話では、列車の座席の下に新聞紙に包まれた箱が置いてあったり、ガソリン
容器のようなものが倒れたりしていた。また車内に透明の液体がまかれたという証言
もある。(『朝日新聞』95年3月20日夕刊)
調べでは、不審物は五本の電車に、それぞれ一つずつ置かれていた。捜査本部が密
閉して保管しているが、二十五日までに中身を確認したところ、三つは弁当箱くらい
の大きさの容器が、二つはビニ-ル袋がそれぞれ新聞紙に包まれていたという。(『朝
日新聞』95年3月26日朝刊)
日比谷線小伝馬町駅-電車が駅に着いた時、車内に直径、高さとも35センチ位の
筒状の物が二重のビニ-ルに包まれて置いてあった。乗客が「これは危ない」とホ-
ムにけ飛ばした。(『読売新聞』95年3月20日夕刊)
丸ノ内線池袋駅-午前8時30分ごろ、2両目に乗ったところ、ドア付近に新聞紙
に包まれたものがあった。円柱状で人の頭大だった。(『読売新聞』95年3月20
日夕刊)
不審物の多くは、二十-四十センチ四方の弁当箱状のもので、中には直径約三十五
センチの筒状のものもあったという。(『読売新聞』95年3月20日夕刊)
日比谷線-新聞紙かチラシのようなものでくるまれ、ビニ-ルのひもで十文字に結
わえられた縦、横二十センチぐらいの紙袋が床に落ちているのに気付いていた。(『読
売新聞』95年3月21日朝刊)
これまでのところ車内にあった新聞にくるんだ不審物から液が漏れ出しガスが発生
したという。不審物は二十センチほどの大きさの弁当箱のような金属製の物体。(『毎
日新聞』95年3月20日夕刊)
日比谷線-男が車内に置いたとみられる不審物は、直径.高さとも三十五センチ程度
の円筒形で、新聞紙やビニ-ルで包まれており、液体はサリンとみられている。(『東
京新聞』95年3月21日朝刊)
千代田線国会議事堂前駅では、ホ-ムに居合わせた清掃作業員(65)が午前八時
十三分着の代々木上原行き電車の先頭の床に強烈な異臭を放つ、高さ約三十センチ、
幅約十五センチの白いプラスチック製の水筒のようなものを見つけた。布切れの上に
置かれていたので、ホ-ムに持ち出し、警察が押収したという。(『東京新聞』95
年3月20日夕刊)
車内にはシンナ-のような強い異臭が立ちこめていた。車内を探したところ、床に
落ちていたビンのような容器に入った白いポリ袋からにおいが出ているのを発見。駅
構内の管理室内に運んだ。(『日本経済新聞』95年3月20日夕刊)
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