農業と言うのは、毎年毎年カレンダー通りに水田を耕し、水を張り、雑草を同じような手順で取り、同じような時期に刈り入れをすると言う、極めてマンネリな作業ではなかろうか。一部の局面では確かに共同作業を必要とはするが、それとても極めてマンネリ化された作業手順では無かろうか?決められた時期に参集しているだけで、作業内容は固定されており、基本的には他の作業者無視で、自分の目の前の稲穂に向かう作業が基本だ。
言って見れば、緑色したベルトコンベヤー作業では無かろうか?
無論、村落の指導者クラスになってくると、こうではいかない。まさに対人業務と調整業務、そして作付け状況の緻密な把握と村民への布告など、高度な作業能力を必須とする。
そして近代化である。こう言う頭の良い人材は全て都会に最初に出て行った層になったに違いない。どこまでも指導者は指導者なのである。次に、指導者について行く程度に頭が働く者は、より下層の、より遅れて都会に出た中堅の階層になって行ったのではなかろうか?
しかし近代化は、それ以上に村落側からの人材を吸収して行った。マンネリで、対人では無い対稲穂作業をただ延々と言われる通りに繰り返す事だけは辛うじて可能なレベルの脳を持つ層までも、都会に動員して行った。これが緑「では無い」真のベルトコンベヤー作業員なのではなかろうか。
そして平成末、日本国内からはベルトコンベヤー作業の場所が著しく減った。これらの作業に向いた才能を持つ者の活躍できる場所、居場所、働き場所が無くなって来たのである。
これが、発達障害問題の一断面ではなかろうかと、その様に俺など想像している。発達障害の問題とはつまり、産業構造がより対人技能を必要とする構造に変化したのにも関わらず、その方面の作業能力=知能検査で測定されうる意味での知能に恵まれ無い者を、社会の不適合者としてしまったものと考えている。