集団で狩猟採取生活をするには別の認知能力が必要であったのではないか

京都大学霊長類研究所教授(認知神経科学)の正高信男先生は自閉症スペクトラムを「生物としての人類のバリエーション(変異)のひとつ」と捉えていらっしゃるようですよ。 自閉症スペクトラムには淘汰圧がかからなかった、つまり社会を形成し集団で狩猟採取生活をするには、ある一定割合の、定型(発達)者が持っていない、別の認知能力が必要であったのではないかと。 

狩猟採取生活から農耕が始まってもなお「毎年毎年カレンダー通りに水田を耕し、水を張り、雑草を同じような手順で取り、同じような時期に刈り入れをすると言う、極めてマンネリな作業」をしている間は彼らに居場所があったといえます。 しかし、先生の指摘されるように「平成末、日本国内からはベルトコンベヤー作業の場所が著しく減った」ことが、これほどまでに発達障碍の問題がクローズアップされることになったのだと思います。 

前述した通り、ASD者はフリスの言う empathy を感じることはなくとも sympathy は感じられる、いや、むしろ強く感じるのです。 発達障碍を neurodiversity として捉えるのは、単に発達障碍当事者の問題を超え、種の保存としての人類の問題ではないでしょうか?